都市国家カトナとは? わかりやすく解説

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都市国家カトナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 15:45 UTC 版)

カトナ」の記事における「都市国家カトナ」の解説

カトナ文献最初にあらわれるのは、ウル第三王朝時代にまでさかのぼる。カトナでは、青銅器時代後期宮殿瓦礫内から、エジプト第12王朝アメンエムハト2世紀元前1875年 - 紀元前1840年)の娘・イタースフィンクス発見されており、エジプトからの影響強さ物語るものの、このスフィンクスがいつカトナもたらされたかははっきりしないため第12王朝カトナとの関係も明確ではない。 マリから発見され文献により名前の分かっている最初カトナ(カタヌム Qatanum)王は、イシ・アッドゥ(Ishi-Addu、「アッダはわが助け」)である。彼は上メソポタミアのシャムシ・アッドゥ(Shamshi-Addu)と同盟組んでいた。イシ・アドゥの跡を継いだのは息子のアムト・ピ・エル(Amut-pî-el)で、王子の頃にナザラ(Nazala)の知事だった人物である。彼の治世バビロニアハンムラビ王紀元前1792年 - 紀元前1750年)と同時期だった。アムト・ピ・エルの妹ベルトゥム(Beltum)はマリの王ヤスマフ・アッドゥ(Jasmah-Addu)と結婚している。彼女の母はおそらくアッシュールかエカラトゥム(英語版)の出身のラムマシ・アッシュール(Lammassi-Ashur)とみられるマリの王ジムリ・リムカトナ出身の姫ダム・フラシム(Dam-hurasim)を娶っている。マリハンムラビ征服され破壊された後は、カトナに関する文献少なくなる。ヤリム・リム3世治めヤムハドアレッポ)がカトナ最大ライバル都市となり、一時ヤムハド支配された。 ミタンニ帝国が上メソポタミア台頭すると、カトナミタンニ同盟を結ぶが、エジプトミタンニの間の係争地となる。カトナ宮殿一部宮殿C室、ニン・エガル(Nin-Egal)神殿呼ばれる部屋)の銘文には、ミタンニ人がカトナ住んでいることが書かれているエジプト第18王朝アメンホテプ1世紀元前1515年 - 紀元前1494年)とトトメス1世紀元前1494年 - 紀元前1482年)のシリア遠征カトナにも達したとみられる決定的な証拠は見つかっていない。カルナックアメン大神殿第7塔門パイロン)には、トトメス3世紀元前1479年 - 紀元前1425年)がその治世33年目にカトナの地に滞在したことが書かれているアメンホテプ2世紀元前1427年 - 紀元前1401年)はオロンテス川を渡る途中カトナ襲われたが、勝利をおさめ戦利品奪った。その中にミタンニ戦車装備もあったことが書かれている

※この「都市国家カトナ」の解説は、「カトナ」の解説の一部です。
「都市国家カトナ」を含む「カトナ」の記事については、「カトナ」の概要を参照ください。

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