自灯明法灯明とは? わかりやすく解説

自灯明・法灯明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:28 UTC 版)

「釈迦」記事における「自灯明・法灯明」の解説

釈迦多く弟子従えラージャグリハから最後の旅出た。アンバラッティカ(巴: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダ通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦破戒損失持戒利益とを説いたパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河渡りコーティ村着いた次に釈迦は、ナーディカ村訪れた。ここで亡くなった人々運命について、アーナンダ質問答えながら、人々に、三悪趣滅し預流果境地至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリー着いた。ここはヴァッジ国首都であり、アンバパーリーという遊女所有するマンゴー滞在し四念処三学説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居入り、他の弟子たちそれぞれ縁故求めて安居入った。この時、釈迦死に瀕するような大病かかった。しかし、雨期の終わる頃には気力回復した。この時、アーナンダ釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができましたと言った。これについて釈迦は、 「 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外区別もなく、ことごとく法を説いたアーナンダよ、如来教法には、(弟子に何かを隠すというような)教師握り拳(ācariyamuṭṭhi秘密の奥義)はない。 」 と説きすべての教えはすでに弟子たち語られたことを示した。 「 アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように 」 と訓戒しまた、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、 「 ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、世界における欲と憂い捨て去るべきである。 」 「 アーナンダよ、このようにして比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである 」 として、いわゆる四念処(四念住)の修行実践するように説いた。 これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

※この「自灯明・法灯明」の解説は、「釈迦」の解説の一部です。
「自灯明・法灯明」を含む「釈迦」の記事については、「釈迦」の概要を参照ください。

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