米內  光政とは? わかりやすく解説

よない‐みつまさ【米内光政】


米内光政

米内光政
総理在職期間
     昭15. 1.16~昭15. 7.22189
総理就任時年齢:59歳

米内光政 よない みつまさ

米内光政の肖像 その1

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米内光政

読み方:ヨナイミツマサ(yonaimitsumasa)

作者 阿川弘之

初出 昭和53年

ジャンル 小説


米内光政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 06:50 UTC 版)

米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政1880年明治13年〉3月2日 - 1948年昭和23年〉4月20日)は、日本海軍軍人政治家海兵29期海大12期。最終階級は海軍大将位階従二位勲等勲一等功級功一級


注釈

  1. ^ ただし、『新岩手人』によれば、海軍省に着任しての第一声の中で「たゞ僕個人としては武人として最大の名誉たる聯合艦隊の司令長官から一個の軍属に過ぎない海軍大臣などになるのはいやだ」と言う一方で「然しそれでは卑怯だと言はれては武人の屈辱だから御引受けしたのだ」とも述べている[57]
  2. ^ 倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかったことと、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任した。
  3. ^ 畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を拒否することができなかった。「閑院宮の顔を立てたい」と考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、米内は辞表を受理した。
  4. ^ 井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。[要出典]東條内閣末期から米内邸に日参していた中山定義によると、大臣就任前から「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、中山は「米内が大臣に復帰したら、次官は必ず井上だ」という感触を得ていた[96]
  5. ^ この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している[104]。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。
  6. ^ のちに米内と共に内閣で終戦を主張する外務大臣東郷茂徳は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で5月11日の戦争最高指導会議構成員会合においで米内がソ連を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられている。
  7. ^ 元々、米内と阿南は気質的な部分でなかなか反りが合わず、竹下正彦陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった。阿南は鈴木貫太郎首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も小島秀雄海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている阿川弘之 1982。また、終戦の玉音放送の原稿についても、「戦勢日ニ非ニシテ」を「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあったという。会議中に中座する際、米内は迫水久常に絶対に修正を認めないよう指示した。しかし会議に戻ってきた米内は鈴木の仲介で修正を受け入れ、「戦局必スシモ好転セス」と改められた[112]
  8. ^ 知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物を全てまとめており「(収監される)準備はできているよ」と笑顔で答えたという[114]
  9. ^ 血圧は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で[115]、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。
  10. ^ 昭和16年(1941年)10月に近衛文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。
  11. ^ 山田風太郎は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している[122]。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が参謀総長閑院宮載仁親王を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼすことを恐れて実状を口にすることを避けたともいわれている[123]。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル(nice admiral)」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた緒方竹虎は聞いている[124]。畑はその米内の態度について、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)[東京裁判にて] 毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。
  12. ^ 山本五十六を条件付きの一等大将と格付けしている
  13. ^ 佐々木は米内と同じ岩手県出身でアニメでも東北訛りで演じている。

出典

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  163. ^ a b 盛岡の先人たち:米内光政”. 盛岡市公式ホームページ (2018年12月10日). 2021年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月18日閲覧。
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  168. ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
  169. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
  170. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
  171. ^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。
  172. ^ 『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。
  173. ^ 『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。
  174. ^ 『官報』第2740号「叙任及辞令」1936年2月22日。
  175. ^ 『官報』第3357号「叙任及辞令」1938年3月15日。
  176. ^ 『官報』第4072号「叙任及辞令」1940年8月2日。
  177. ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
  178. ^ 『官報』第91号「叙任及辞令」1907年7月21日。
  179. ^ 『官報』第1815号「叙任及辞令」1933年1月20日。
  180. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  181. ^ 『官報』第4570号「宮廷録事 勲章親授式」1942年4月7日。
  182. ^ a b 『官報』1942年2月12日 賞勳局
  183. ^ 『官報』第3946号、昭和15年3月4日
  184. ^ 高田 1990b, p. 86.
  185. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、216頁。ISBN 978-4-651-70079-3 


「米内光政」の続きの解説一覧

米内光政(よない みつまさ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 16:19 UTC 版)

夢幻の軍艦大和」の記事における「米内光政(よない みつまさ)」の解説

内閣総理大臣海軍大臣自宅山本将棋を指す場面がある。その席で山本は今が講和機会ではないか、と話を持ちかけるが、緒戦勝利国民浮かれている今は難しい、と米内否定するもう一度有利に講和機会作ってくれれば、と米内は言う。山本は、それには米空母を残らず沈めてしまうことしかない、と答える。

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米内光政(海兵29期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:37 UTC 版)

駐在武官」の記事における「米内光政(海兵29期)」の解説

ロシア革命直前1915年大正4年)~1917年大正6年)に駐露武官となる。後に海軍大将内閣総理大臣

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米内光政(よない みつまさ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 17:36 UTC 版)

狂四郎2030」の記事における「米内光政(よない みつまさ)」の解説

自衛隊元帥。旧自衛隊の中では、現ゲノム体制で最も高位上り詰めた一人。旧自衛隊員には神格化されており、狂四郎のような自衛隊以外の軍人出身者からも敬愛されている。先細りにある旧自衛隊派をまきかえすために秘密結社まほろば」を結成運営する老人見た目温和で、語り口聡明そうだが実は心中差別感情高く残虐性秘めた老人

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