砂川遊園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 04:57 UTC 版)

砂川遊園(すながわゆうえん)は、かつて大阪府泉南郡信達町(旧信達村)にあった遊園地。阪和電鉄によって運営されていた。
戦争に翻弄され、開業から10年とたたずに閉鎖された。
砂川奇勝についてもここで述べる。
歴史
砂川奇勝
約200万年前の洪積世、砂岩が隆起して地表に露出した。砂岩地層故に風雨にさらされて風化し、凹凸のある斜面が形成された(いわゆる土柱に近い)。この削られた姿が、ある時は猛虎の姿に、またある時は天に駆けのぼる飛竜の姿に見えたなどといわれ、岸和田藩主が見物に来る等景勝地として名を得[1]、昭和初期には「泉州の耶馬渓[注 1]」とも称される一大観光地へと成長していた[2]。考古学的な価値も高く、一時期は天然記念物候補だったともいう。
なお、この風景が「砂川」の名の由来でもある[1]。
阪和電気鉄道による開発
1930年(昭和5年)、付近に路線と駅(信達駅)を建設した阪和電気鉄道は、南海との競合に際し、当駅の立地に目を付け[注 2]、この地を宝塚に匹敵する一大リゾート地への開発を計画[注 3]。田中源太郎や河上商店ら地元の不動産と結託し、別荘地や住宅地とあわせて1933年(昭和8年)頃から遊園地開発も行われ[3][注 4]、百合が池の湖畔に「テント村」がオープン。それに先立つ1932年(昭和7年)に信達駅は阪和砂川駅に駅名を変更した。そして、1935年(昭和10年)に開業したのが前身の砂川児童遊園である[3]。
当時は大阪が経済的に大発展を遂げた大大阪時代の最中で、阪神の甲子園阪神パーク(1929年)、近畿日本の生駒山上遊園地(同)など多くの関西私鉄において同様のムーブメントが起こっていた[4]。
砂川遊園

1936年(昭和11年)、児童遊園は正式に遊園地として営業を開始した。電鉄が春秋の行楽シーズンに割引切符を出し、また宣伝の柱にするなどの熱心な売り込みもあり目論見通り大盛況となり、開業3年間で200万人、一時期のの利用者数は1日あたり5、6万人を数えていたという[注 5][5][3][6][信頼性要検証]。1937年(昭和12年)には阪和砂川駅に東口が開設され、夕刻になると帰りの切符を求め長蛇の列がなされていたという。
開業直後に日中戦争の長期化により世間が観光自粛ムードとなり、レジャー需要は徐々に遠のいたが、園周辺にはハイキングコースがあることもあり(後述)、「体位向上」を謳って集客する方針も立てられた。
ちなみに当時のパンフレットにはミッキーマウスが描かれていた[7]。
戦争と閉園
しかし阪和電鉄自身の経営不順や太平洋戦争の激化に伴い、1940年(昭和15年)に阪和電鉄は南海に経営統合され南海山手線となる。1941年(昭和16年)に阪和砂川駅を砂川園駅に改称するなどの動きはあったものの、宣伝環境の悪化に伴って存在感は徐々に薄れていった[3]。
1944年(昭和19年)頃には金属供出に伴い遊具の殆どが撤去され、園周辺は芋畑になったとされており、1943年(昭和18年)前後に営業を終えたと思われる[8]が、公的な資料は現存しておらず詳細は不明である。
同年山手線は改正陸運統制令により国有化され阪和線となると同時に、砂川園駅は和泉砂川駅へと改称された。
閉園後

昭和30年代までは遊園跡地内に遊具が残っており遊ぶことも可能だったようだが[9]、その後高度経済成長に伴う大規模宅地開発の一環で1964年(昭和39年)に土地も売却され[10]、1974年(昭和49年)頃には遊園も奇勝も宅地化によって大部分を消失した[11]。
2023年(令和5年)現在、遊園は貸しボートのあった池を除くと、和泉砂川駅付近のロータリーに残る歓迎塔の根元が姿を留める[12]。一方で奇勝は住民の運動によりわずかながらその姿を残しており、見学も可能である[13]。
施設
「天恵の楽園」とかかれた当時のパンフレットを参照すると、次の遊具があったとされる。
- サル山(モンキーハウス)
- サイクリング
- 大花壇(沈床花壇)
- トラック
- ステージ
- ボート池(貸しボートとは別)
- 遊技場
- ミニSL(子供汽車)
- ゴーカート(子供自働車)
- 飛行船塔[注 6]
- 表忠塔
- 展望塔
- 演芸場
そのほか、
なお、入場は無料であった。
加えて周囲は長慶寺や林昌寺をめぐるハイキングコースとして整備され、キノコ狩りなどのイベントも多く開催された。
また、駅前は地主によって商店街として開発されていた。
交通

注
注釈
- ^ 昭和期の絵葉書には「天下の剣」や「鬼すべり」などの文言もあった。
- ^ 会社の事業目的を定めた第二条に「土地建物及娯楽機関ノ経営並ニ之ニ関係スル事業」とあることから,創立当初より総合遊園地の開発は意図されていたと考えられる。
- ^ 山中渓温泉とあわせたプロジェクトであった、との資料もある。
- ^ 同じころに遊園側である東口駅舎の開設申請がなされた。
- ^ 参考までに、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン初年度の1日平均利用者数は約3万人である。
- ^ 閉園後も1960年代まで残っていたことが確認されている。
- ^ 現在は消失。
脚注
- ^ a b “砂川奇勝(すながわきしょう)”. 泉南市. 2025年4月19日閲覧。
- ^ 「南郊随一のパラダイス : 泉州の耶馬渓砂川奇勝土地 : 河上商店土地部の経営」『大阪朝日新聞』1930‐06‐01。
- ^ a b c d e 貝澤武史「昭和初期における大都市圏郊外電気鉄道の遊覧地開発 : 阪和電気鉄道を事例として」『空間・社会・地理思想』第11巻、九州大学大学院人文科学研究院地理学講座、2007年、19-43頁、CRID 1390853649849951488、doi:10.24544/ocu.20180105-043。
- ^ “幻の遊園地を資料で振り返る 大阪・泉南で展示会”. 産経新聞:産経ニュース (2014年12月18日). 2025年4月19日閲覧。
- ^ カイル (2018年5月16日). “阪和電気鉄道 昭和初期の面影 その39 「企画展 昭和の一大観光地砂川」と「砂川遊園・砂川奇勝」”. ありのまま生きてこう 自分を磨きながら. 2025年4月19日閲覧。
- ^ かずきび47 (2021年7月3日). “JR阪和線の和泉砂川駅の近くにあった悲劇の遊園地とは?”. 大阪で自由気ままに生きる道. 2025年4月19日閲覧。
- ^ 『天恵の楽園 砂川 御案内』阪和電鉄〈鳥観図〉、c1935 。2025年4月19日閲覧。
- ^ 「企画展 昭和の一大観光地砂川」(泉南市埋蔵文化財センター)展示より
- ^ a b 泉南市教育委員会『せんなんのたからもの 活用のご案内』(PDF) 平成21年度版、泉南市、2009年4月、8頁 。2025年4月19日閲覧。
- ^ 泉南町役場企画室 (1964‐2‐15). “広報せんなん 昭和39年2月15日発行”. 広報せんなん (丹羽印刷所) (3): 5 .
- ^ “整理番号:CKK749 コース番号:C11-6 写真番号:6”. 地図・空中写真閲覧サービス. 国土地理院 (1975年3月2日). 2025年4月19日閲覧。
- ^ “和泉砂川ロータリー(旧砂川遊園入口)” (2024年7月1日). 2025年5月13日閲覧。
- ^ “砂川奇勝 | スポット・体験 | 【公式】泉州観光ガイド [ KIX泉州ツーリズムビューロー ]”. welcome-to-senshu.jp. 2025年5月13日閲覧。
関連項目
- 砂川遊園のページへのリンク