画塾写山楼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 01:02 UTC 版)
画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し、楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は2階建て・20畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。 定信の隠居後、文晁は長年の功績により恩給を受け、格式は奥詰のまま写山楼にて画業に専念した。妻の谷幹々(林氏)、妹の舜媖・紅藍らも女流画家として知られる。実弟の島田元旦も画を得意としており、養子谷文一、実子谷文二も画技に優れ、谷一門は隆盛した。しかし、後継者と目された文一、文二がともに夭折したため、写山楼はその後は零落した。
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