猛虎図目貫
もうこずめぬき
一宮長常は日本海側の海運の要所である越前国敦賀の産。祖先は加賀前田家の家臣であったが敦賀に移住して造り酒屋を営み、父長芳が五代目。その三男として享保六年に誕生し、幼名を長太郎、のちに忠八と称す。幼くして京都に上り滅金師の弟子となり金工細工を修業し、同時に画をも習い後には石田幽亭や山崎如流斎に学ぶ。十三歳にて保井高長の門に入り本格的に彫金技術を習得、筍・土筆・蝸牛・蛙などの静物を題に採った写実的な作品をものにして諸人の耳目を集めたと言われているところから、これは若年の頃の異才を評価したものと考えられよう。業成って獅子や龍などの作に後藤家に迫る出来が見られる程になり、寛延二年に京都麩屋町に開業。初銘を雪山と切る。その後、銘を長常に改め、明和八年には越前大掾に任ぜられ、後に越前守に転ずる。長義・長美・常直などの弟子を育成し、東の宗珉、西の長常と謳われる程の名声を博し、天明六年に六十六歳の天寿を全うしている。 作風は、青壮年期の後藤家や横谷風の高彫色絵表現と、磨地に薄肉彫や片切彫に平象嵌を加味した晩年期の個性の強い作がみられ、後者は祭りや人物などのような社会風俗に取材した、動感のある写生を下絵としたものが多く、これは長常の特色でもあり、後の金工に表現主題の広がりと奥深さを伝えたとも言えるであろう。現在残されている長常作品の『彫物絵帖』に記されている数々の下絵は、長常の作品を探る資料であると同昨に、長常が生きた時代の風俗や世相を知る手掛かりともなって貴重である。 親子虎を図に採ったこの目貫は、後藤風の彫刻表現になる極肉高の作であるが、後藤のそれに比してさらに胴体に丸みがあって姿態に量感が感じられる。毛並を表わしている片切彫による線刻には抑揚があり、虎の身体のしなやかさと共に筋肉の隆々たる様子を生み出しており、これが虎のなにげない動作に覇気を与え、四肢の表情に動感をもたらしている。地金は性の良い金無垢地で、これを厚手に仕立てて容彫に片切彫を加えており、重厚で華麗な黄金色に包まれているが、細部を精査すると金錆が生じて色合いに変化が見られ、一層の深味が感じられる。裏行も丁寧に仕上げられ、丸根に添えられた流麗な筆致の短冊銘も格調が高い。 |
![]() | ![]() |
猛虎図目貫と同じ種類の言葉
- 猛虎図目貫のページへのリンク