河原淵氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 16:59 UTC 版)
| 河原淵氏(絶家) | |
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| 本姓 | 源氏庶流 |
| 家祖 | 不明 |
| 種別 | 武家 |
| 出身地 | 伊予国宇和郡黒土郷河原淵村 |
| 主な根拠地 | 伊予国宇和郡黒土郷河原淵村 |
| 著名な人物 | 河原淵教忠 |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
河原淵氏(かわらぶちし)は、日本の氏族のひとつ。中世に伊予西部を領した氏族。本姓は源氏[1]。
概要
河原淵殿の名は宇和郡黒土郷河原淵村(後の松丸村)に由来する。この河原淵領の地域は本来伊予西園寺氏の荘園・宇和荘の一部であったと考えられる。南北朝時代の初期の暦応3年(1340年)の喜多郡菅田村の清谷寺諸種那譲状には既に「河原淵殿一族」の名が見える[2]。
「渡辺家新城氏源姓之由来書」によると、渡辺綱6代孫の渡辺連が建久7年(1196年)に河原淵に入部し、その次男・政連が建保元年(1213年)に源実朝から土地を拝領したとする。しかしこの記録は明らかに後世のもので、東宇和郡と記していることから明治11年(1878年)の宇和4郡制定以後に作成されたものである。そのため、渡辺氏の鎌倉初期入部説は事実ではない。しかし、同地域に土豪の渡辺氏がいたことは確認でき、天文4年(1535年)に渡辺弾正忠源清宗が上目黒村(松野町)の蔵王権現社を再建しており、天正4年(1576年)には参河守渡辺市正源清光が野々北新田五社大明神社一字を再興している。『宇和旧記』は明応5年(1496年)2月18日に大宿村(広見町)の白王大権現社を造営した源朝臣日向守諸正の嫡子・宮内少輔弘正の末流を渡辺将監とし、鹿ヶ森城主であったとする。この説を裏付ける史料は無いが、正を通字とする源姓の領主が広見村・松ノ森(生田)村・父野川村(日吉村)に活動の形跡が見られることから、南北朝時代末期から広見の地域に源姓の領主が存在していたのは確実である[3]。
『宇和旧記』や『清良記』は河原淵領主について、土佐一条氏当主・一条房家の3男である東小路教行の子が河後森城主の源政忠の養子として河原淵日向守教忠と名乗ったとする。また、教忠は庄林肥後守時忠の4代孫とする。『歴名土代』によると、天文18年(1560年)には東小路教行・教忠親子が共に従五位下に叙されている[4]。永禄3年(1560年)11月に上鍵山村の山王宮を再建した時の棟札がには「大旦那藤原朝臣兵部卿教忠」と署名している。教忠が永禄13年(1570年)に再建した延川村の天満大自在天神宮の棟札には「源朝臣教忠」と見え、永禄3年(1560年)は藤原姓と記していたものが、10年後の永禄13年(1570年)には源姓を称している。教忠が渡辺氏であったか否かは不明だが、『清良記』の記述のように実際に土佐一条氏の出身であった[5]。
永禄8年(1565年)10月28日には教忠は領内の照源寺に対し掟状(置文)を発給している。また、永禄9・11•元亀元年と3度に亘って土佐一条氏軍が伊予国に侵攻した際、一条氏軍と戦わずに河原淵侵入を容易に許した。河原渕氏は宇和郡内の西園寺氏の配下にあるとは言え土佐一条氏の出身であり、元亀元年(1570年)の一条軍の大将は父・東小路教行であったことから、その去就を明確にしなかったのは当然と言える。西園寺氏の家臣は西園寺公広に抗議をしたものの、公広は教忠を処罰せず、その代わりに三間の諸城へ付待を派遣してこれを慰撫し、さらに河原淵殿の居城である河後森城へ侍40騎を配置し、その監視を強めた。ところが、一条氏滅亡後に教忠の態度は一変した。長宗我部氏軍の度重なる侵入をよく防いだ。しかし、天正5年(1577年)の長宗我部氏の大軍来襲の際はこれを防ぎきれず、降伏して旧領を安堵され、それ以来長宗我部氏の支配下に入った。その後、天正8年(1560年)前後に教忠は松の森島屋ヶ森城主の芝美作守政輔父子の謀略にかかって河後森城を奪取され、追放の憂目にあったという。『宇和旧記』は、教忠が芝美作守政輔の子・源三郎を寵童として溺愛し、政務を怠ったために芝氏に実権を奪われたものとする所説を載せている。事実であるか否か明らかではないが、教忠の名はその後現れず、かえって天正8年(1580年)には美作守政輔父子が松の森村の三島大明神社を建立していることから、勢力の交替があったことは事実と見られる。なお『宇和旧記』によると、教忠は深田殿竹林院公義の子・実親(実近)を養子としていたとし、追放された後は実親の実家である竹林院氏を頼り、芝氏を討伐せんとしたがそれを果せなかった。実親は西園寺氏に訴えたが、西園寺氏はこれを退けて、芝氏の河原淵領領有を許したという[6]。
脚注
注釈
出典
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