東郷の肉声
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最晩年の昭和6年(1931年)に日本ビクターに、昭和8年(1933年)に日本コロムビアにそれぞれ肉声を録音し、2枚ずつ計4枚8面分の肉声が残されている。内容は以下のとおりである。 日本ビクター盤 「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(上)」53190-A 「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(下)」53190-B 「追憶 日本海海戦第一報告とその信号」53444-A 「奉読 軍人勅諭五ヶ條」53444-B 昭和7年(1932年)1月4日は軍人勅諭下賜50周年記念日にあたり、その記念の一環として東郷の記念講演の生放送が1月4日夜に企画された。放送は麹町の東郷邸に放送機材を持ち込んで行われたものであるが、東郷が高齢であるため、放送当日に身体上の理由で放送ができなくなる可能性も考えられた。そこで、海軍省は日本ビクターに命じて昭和6年12月27日に同じ内容の講演を事前に録音させ、万一の時は東郷邸からレコードを放送する手はずを整える事となった。この録音にたずさわった日本ビクターの録音技師・楠本哲秀の回想によれば、録音当日、東郷は元帥制服に威儀を正し、居間に置かれたマイクの前で最敬礼をしたあと、直立不動の姿勢で一連の録音を吹き込んだ。この録音は楠本にとって、「一生忘れられない思い出」の一つだった。このレコードは当時は発売されずに海軍省内で限定的に配布されたが、国葬当日夜に放送された後、「軍人勅諭奉戴五十周年記念」は東郷の五十日祭にあたる昭和9年(1934年)7月19日に、残りは昭和10年(1935年)5月27日に一般に発売された。また、長田幹彦は日本ビクターに対して「聯合艦隊解散之辞」も録音してはとアドバイスしたが、相手にされなかった。 日本コロムビア盤 「聯合艦隊解散式訓示(上)」28000-A 「聯合艦隊解散式訓示(下)」28000-B 「三笠艦保存記念式祝辞」28346-A 「海と空の博覧会における祝辞」28346-B 前述のように、日本ビクターは長田幹彦からの「聯合艦隊解散之辞」の録音の要請話に取り合わなかった。そこで長田は、次に日本コロムビアに録音話を持ちかけたところ、日本コロムビア側が承諾して録音が実現した。さらに、東郷の家族から祝辞の録音も要請された。録音は昭和8年(1933年)2月18日にビクター盤と同様に東郷邸で行われ、「聯合艦隊解散式訓示」(聯合艦隊解散之辞)はビクター盤と同じ昭和9年(1934年)7月19日に、二つの祝辞は昭和10年(1935年)5月20日に発売された。 なお、「海と空の博覧会」とは昭和5年(1930年)3月20日から5月31日にかけて上野恩賜公園と「三笠」で開かれた博覧会で、博覧会初日には東郷が祝辞を読み上げ、この模様はJOAK(東京放送局)が生中継した。当時の東京朝日新聞は「ラジオを通じて始めての東郷元帥の親し味あるすんだ声もファンの耳に入ったので大喜びであった」と書いた。 その他、明治38年(1905年)10月29日に青山霊園で挙行された海軍弔慰祭でも、東郷の朗読する祭詞の録音が小笠原長生の発案で行われる事になっていたが、朗読する東郷の写真を撮ろうとした写真屋に対して東郷が「お下げなさい」と一喝。驚いた写真屋はあわてて逃げ出し、ついでに幕の後ろで待機していた録音技師達までもが逃げ出したため、録音は行われなかった。
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