東の佐久間、西の清原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 19:01 UTC 版)
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東の佐久間、西の清原(ひがしのさくま、にしのきよはら)は、日本の高校野球の歴史においての事柄。
概要
1985年の高校野球においての東西それぞれの強打者。東は東海大学付属浦安高等学校の佐久間浩一、西はPL学園高等学校の清原和博で、それぞれ優勝候補の一角に名を連ねていた[1]。
1985年の夏の大会では高知県立伊野商業高等学校は1回戦で佐久間の所属する東海大学付属浦安高等学校と対戦することになる。甲子園球場での割り当て練習の時間では佐久間は1球目をいきなりバックスクリーンに打つということをした。これを見た伊野商業の監督は、こりゃ見せられんもう帰るぞと言うほどの衝撃を受けていた[1]。だがこの試合で勝ったのは伊野商業であった。この試合の勝利投手は渡辺智男で、東の佐久間、西の清原とされた佐久間はタイムリーヒットを打つことはできたが、得点はこの1点のみで初戦敗退した。渡辺は6安打1失点の完投勝利であった[2]。
東の佐久間、西の清原の時代から30年が経ち、2015年に発売された当時の高校野球を振り返る事典でも東の佐久間、西の清原がタイトルとなる記事が掲載される[3]。
脚注
- ^ a b “85年春、PL清原和博沈黙せり!2年生捕手が語る渡辺智男の凄み【二宮清純コラム】 | 高校野球 | J:COMテレビ番組ガイド”. 二宮清純コラム | 高校野球 | J:COMテレビ番組ガイド. 2025年10月11日閲覧。
- ^ 楊順行. “[高校野球]あの夏の記憶/清原3三振から4カ月後の渡辺智男は…… その1”. Yahoo!ニュース. 2025年10月11日閲覧。
- ^ “野球太郎 野球太郎SpecialEdition[1985年]大事典 (発売日2015年07月31日)”. 雑誌/定期購読の予約はFujisan. 2025年10月11日閲覧。
関連項目
- 東の佐久間、西の清原のページへのリンク