すぎはら‐がみ【杉原紙】
杉原紙(すぎはらがみ)
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加美町の北部杉原谷で紙を漉き始めたのは7世紀の後半と推定されており、杉原紙の前身である「播磨紙(はりまのかみ)」は奈良時代日本一と謳われました。平安時代から室町末期まで、この地杉原谷は藤原摂関家(のち近衛家)の荘園で、貴族社会に珍重されました。 終始一貫した杉原紙の最大の用途は祝儀贈答の品とされたことですが、奈良時代にはもっぱら写経用紙に、また鎌倉時代には幕府の公用紙に用いられ、室町時代の中頃から次第に一般庶民にも普及し、証書や手紙などに使用されました。 一方、 14世紀から本の印刷用紙に、江戸時代には版画にも用いられました。このように杉原紙が1000年以上の長きにわたって天下の名紙として世人に愛好されたのは、この郷土に豊富に自生していたコウゾ、深い谷の奥からこんこんと湧き出、流れて尽きぬ冷たく澄んだ清らかな水、それらが共に極めて良質であり、この天然自然の恵みを巧みに生かした祖先の、絶えざる工夫と努力を積み重ねてきたたまものなのです。 | 加美町和紙博物館 寿岳文庫 | |||||||||
原料出荷風景 | 洋紙に圧倒されて過去数十年間紙漉きは途絶えていましたが、こうした輝かしい歴史と古く長い伝統を誇る杉原紙を復活再現しようと、加美町は昭和47年春杉原紙研究所を設立、昔どおりの技法で漉き始め、 58年には兵庫県の重要無形文化財に認定され、平成5年に兵庫県伝統的工芸品の指定も受けました。 技術的には素人の産地ですが、本物を守っていくということにおいては努力をしています。現在、町立といった面から、広く町民の理解を求めながら将来の発展を期しています。 本来の杉原紙の原料であるコウゾを中心にしていること、原木から製品まで一貫してつくっていることが特徴の一つといえます。そしていつも、純コウゾ100%であり、純手漉きであることです。 |
杉原紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 00:42 UTC 版)
杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。
注釈
- ^ 「和紙」をどう定義するかによっても、これらの起源に関する説は異なったものになる。大陸から紙の製法が伝来したと考える説に従うと、はじめは渡来人が大陸風の紙漉きを日本で行ったことになるが、これを「和紙」とみなすかどうかによって差異が生じる。「和紙」固有の特徴として「流し漉き」という製法があり、長いあいだ一般に「流し漉き」が「和紙」の概念の主要な部分を占めていた。この考え方に従えば「流し漉き」の発祥が「和紙」のルーツということになる。しかし近年になって、「流し漉き」の技法は東南アジアなどにも存在していたことがわかってきており、「流し漉き」は日本にしかない製法とはいえないことが明らかになりつつある。
- ^ 1116年(永久4年)7月11日 (旧暦)の条。[18]
- ^ 1帖は紙の量を表す単位で、紙の厚みなどで1帖の枚数は異なる。中世では杉原紙は48枚で1帖だが、この殿暦での時点でも同様であるかは不明。仮に同じだとすると約5000枚ということになる。
- ^ 近年、江戸期から明治期の和紙を分類して製法や成分、基礎性質を分析する試みが行われたことがあるが、試料が断片であるために有意な成果を得られなかった。[22]
- ^ 主に書き損じた紙のことを「反故」という。
- ^ 当時の紙の流通量に関する直接的な言及や調査はないが、紙の博物館の創設者の一人である関義城が、室町中期の朝廷関連の文献記録に文書の作成や贈答として紙が登場する回数を調べたところ、杉原紙が約2000回、檀紙が約700回、引合紙が約500回、美濃紙が約200回などとなっており、檀紙や引合紙の不足から公家も杉原紙を使用していたことがわかる[11]。とはいえ、たとえば公家の日記『看聞御記』に限定すると、杉原紙37回、檀紙・引合紙が171回となり、檀紙のほうが好まれていたことがよみとれる[11]。
- ^ 実際には、檀紙、引合紙、美濃紙など、杉原紙以外の紙が用いられた事例はある。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『紙の文化事典』p.225-226
- ^ a b c 『書の和紙譜』上巻解説編 p.100
- ^ a b c d e f 『和紙のすばらしさ -日本・韓国・中国への製紙行脚-』p.95
- ^ a b c d e f 『和紙類考』p.61-71
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『すぐわかる和紙の見わけ方』p.32-33
- ^ a b c d e f g h i j k 兵庫県 企画県民部知事室広報課 伝統を守る-手漉き和紙「杉原紙」2014年10月24日閲覧。
- ^ a b 『和紙の源流』p.145-146
- ^ a b c d e f g h 『和紙つくりの歴史と技法』p.87-90「より薄く強靭な紙をつくる「流し漉き」」
- ^ a b 兵庫県 産業労働部産業振興局工業振興課 杉原紙2014年10月24日閲覧。
- ^ a b c d 『和紙つくりの歴史と技法』p.91-95「優美な和歌の料紙」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『和紙つくりの歴史と技法』p.104-109「優位を確立した地方産紙」
- ^ a b c d 『和紙の源流』p.152-153
- ^ a b c d e 『書の和紙譜』上巻解説編 p.24-25
- ^ a b c d e 『和紙つくりの歴史と技法』p.124-126「生漉きで用途の広い美濃紙」
- ^ a b 『和紙の源流』p.162-165「高級な文書用の奉書紙」
- ^ 『和紙の源流』p.160-162「生漉きで多様な美濃紙」
- ^ 『和紙の源流』p.165-167「典雅さを誇る奈良・吉野の紙」
- ^ a b c d e f g h 『和紙の源流』p.158-159「武家社会の象徴といわれる杉原紙」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『和紙つくりの歴史と技法』p.118-120「武家社会にふさわしい杉原紙」
- ^ a b 杉原紙研究所 杉原紙の歴史2014年10月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『和紙つくりの歴史と技法』p.132-134「製法面からみた主要紙の特徴」
- ^ a b c d e f g h i j k 『和紙の歴史 -製法と原材料の変遷-』p.73-79「近世の和紙」
- ^ 則ち椙原紙は、承久年間より大いに流布したものである。椙原は則ち一に杉原とも書き、播磨国杉原村にて初めて生産された處から此の名を得た<後略>鎌倉幕府と印刷文化(1937年)
- ^ a b 『木村仙秀集3』p.214
- ^ a b c d 『紙の文化事典』p.224
- ^ a b c 『和紙つくりの歴史と技法』p.141-143「近世の主要な紙種とその主産地」
- ^ 『和紙つくりの歴史と技法』p.144-148「半紙・小半紙と半切紙」
- ^ 『和紙つくりの歴史と技法』p.121「高級な文書用の奉書紙」
- ^ a b c d e 『和紙の里探訪記 全国三百を歩く』p.128-130「公家が用いた杉原紙発祥の地」
- ^ 竹内一真「PD032 失われた技芸の復活から捉える学習と継承の相違 : 社会文化的アプローチにおける世代という視座の必要性(教授・学習・認知,ポスター発表D)」『日本教育心理学会総会発表論文集』第57回総会発表論文集セッションID: PD032、日本教育心理学会、2015年、378頁、doi:10.20587/pamjaep.57.0_378、ISSN 2189-5538、2022年5月15日閲覧。
杉原紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:27 UTC 版)
詳細は「杉原紙」を参照 多可町加美区北部の杉原谷は、手漉き和紙の杉原紙(すぎはらがみ)の発祥地である。加美区鳥羽にある町立の杉原紙研究所周辺は「杉原紙の里」として整備されている。杉原紙研究所は現在唯一の杉原紙製造者であるとともに、紙漉き体験(予約制)が可能な施設として運営されている。また、和紙博物館や販売施設、国道427号の道の駅「杉原紙の里・多可」(1996年登録)を併設している。 播磨国は奈良時代から紙の産地として知られており(播磨紙)、杉原紙もその流れを汲むとされる。「杉原紙」の文献上の初出とされるのは、永久4年(1116年)の関白藤原忠実の日記で、杉原谷にあった藤原氏の荘園・椙原庄で生産される「椙原庄紙」(すぎはらしょうのかみ)を、家宝の調度品とともに子らに贈った記事である。 杉原紙は鎌倉時代以降武家社会の公用紙として普及し、江戸時代には庶民にも使用が広がった。この過程で、コウゾ(楮)を用いた杉原式の手漉き和紙が日本各地で生産されるようになり、「杉原紙」「杉原」と呼ばれた。近代に入ると、和紙に替わって洋紙が普及したことに加え、人工造林が盛んになり雑木林が減少してコウゾの自給が困難になったこと、収益の良い他産業への転業が進んだことなどから、杉原紙の生産は衰退した。江戸時代、杉原谷には和紙を漉く家が300軒あったというが、1925年(大正14年)には紙漉き業の歴史が絶えている。 杉原紙の生産が全国に広がったため、近代には発祥の地も不明となっていたが、昭和初期に和紙研究家の寿岳文章や新村出によって杉原谷(当時は杉原谷村)が杉原紙の発祥地と結論づけられた。地元でも教育者・郷土史家の藤田貞雄によって杉原紙の研究が行われた。1966年(昭和41年)、杉原谷小学校の校庭に「杉原紙発祥之地」記念碑が建てられた。1970年(昭和45年)には大正時代に紙漉きを経験していた宇高弥之助により、杉原紙の紙漉きが再現された。 1972年(昭和47年)、加美町は町営「杉原紙研究所」を設立し、杉原紙の本格的な再興に乗り出した。杉原紙は1983年(昭和58年)に兵庫県無形文化財に、1993年(平成5年)に兵庫県伝統的工芸品に指定された。 1995年(平成7年)からは、原材料のコウゾを地元住民で供給するべく加美町民全世帯参加による「一戸1株栽培運動」を開始した(その後、「一戸2株栽培運動」に発展)。
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