昭和40年会とは? わかりやすく解説

昭和40年会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 02:08 UTC 版)

昭和40年会
設立 1994
種類 アーティストグループ
本部 東京
所在地
  • 東京、ニューヨーク
公用語 日本語、英語
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昭和40年会(しょうわよんじゅうねんかい)として、一般に知られている団体には以下のものがある。

  1. プロ野球「昭和40年会」
  2. アーティストグループ「昭和40年会」(The Group 1965)
  3. その他の団体(「昭和40年会ゴルフサークル」等)

以後、本項において特記のない場合は、アーティストグループとしての昭和40年会を指すものとする。

昭和40年会(アーティストグループ)

1994年NICAF[1] 会場で会田誠小沢剛大岩オスカール松蔭浩之らが話し込んでいた。彼らは全員が昭和40年(1965年)生まれであることに気づき、昭和40年会を結成することになった。

同じ年に、昭和40年会発足のアナウンスのため、NHKの会場を借りて急遽記者会見パフォーマンスを行った。記者会見に出席した当時の会員は会田誠、小沢剛、大岩オスカール、曽根裕、パルコキノシタ(当時はパルコ木下)、松蔭浩之、評論家の開発チエの7名だった。会長は松蔭浩之、マネージャーは当初は関ひろこが暫定的に行っていたが、1997年からは長谷川仁美が担当している。

その後女性アーティストの申明銀が加わったが、女性の申と開発は1996年に二人とも辞め、同じ年に曽根裕が方向性の違いから脱退した。

初期の展覧会は下北沢シナプス画廊での「昭和40年会」展(1996年)や、青山スパイラルホール(東京)の竹尾ペーパーショウ(1998年)では、それぞれが個々の作品を同世代をテーマに見せるというものであった。バルセロナローザンヌワイマール東京と巡回した「Voices from Tokyo」展 にしてもやはり同じように個々の作品展示、日本人の若手の展覧会という内容であったが、日本の現代美術自体があまり知られていない時期のヨーロッパでの展示は紹介と言う点で大変意味のあることであった。いくつかの地元のメディアにも大きく報じられた。

1998年に当時明和電機の土佐正道が加入、つづいて1999年にサウンドアーティストの有馬純寿が加入した。1997年から2000年は、昭和40年会の初めて日本国外への巡回展が実現した年でもあった。1999年にはメンバー全員が出演した映像作品、「晴れたり曇ったり」をリリース、トークイベントと展覧会を開催。2002年から2003年は多くのメンバーがアーティストレジデンスなどで日本国外に滞在していたため、事実上活動は休止していた。大岩オスカールは現在もニューヨーク在住である。

2005年には昭和40年会が40歳になる年として、40X40プロジェクトと題し、それぞれのバースディにパブリックイベント、美術手帳での連載コラム、韓国ソウルでのイベントとパフォーマンス、バンクアート(横浜)や東京ワンダーサイトでの展覧会、同年12月の会長松蔭浩之の誕生日には、大規模なオールナイトのパーティを行うという1年であった。2008年には、「昭和40年会の東京案内」を出版、ナディッフでの展覧会を行った。同年土佐正道が脱退した。

2008年、書籍「昭和40年会の東京案内」[2]が出版された。これは、2005年1月から2008年7月のほぼ3年半にわたり、リアルトーキョーというウェブサイトで連載されたものでメンバーが代わる代わる東京について書いたエッセイである。東京案内と題しつつ、様々な事件や身の回りの出来事、思い出から、地方出身者の負い目まで様々な物語が語られる。当初は昭和40年会独特のイメージである「昭和の東京」やレトロな名所が語られることが多かったが、回を重ねるに連れそれぞれ独自の語り口になっていく。同年、出版記念を兼ねてナディフ(東京、恵比寿)にて展覧会とトークイベントが行われた。

昭和40年会の特徴のひとつといえば、彼らがそれぞれかけ離れた、と言ってもよいほどの異なる芸術表現を行っていることである。インスタレーション、絵画、サウンドアート、パフォーマンス、ニューメディア、コミュニティ・ベースド・アート。それぞれが一つの分野だけでなく活動しており、中には有馬純寿と松蔭浩之のように、コラボレーションで制作(Star, Echo) を行った例もある。また、媒体だけではなくその作品のテーマもかなり異なっている。

それぞれの個々の展覧会とは異なり、昭和40年会としての展覧会はやはり彼ら自身の育った時代背景 を共通のテーマとしたものになることが多い。1965年生まれの世代は、1970年に初めての日本での万国博覧会を子供時代に見て、日本の高度成長を目のあたりにして右肩上がりの未来を信じて育った世代である。テレビの草創期に育ち、小学校高学年には初めてのテレビゲームに夢中になった。1980年代には、「新人類」と呼ばれていた。また、1980年代終わりから1990年代にかけてのバブル崩壊を社会人の始まりに体験し、大きな価値転換を余儀なくされた経験を持つ。

2011年現在のメンバーは、会田誠、有馬純寿、小沢剛、大岩オスカール、パルコキノシタ、松蔭浩之の6名となっている。17年もの長きにわたり、ほぼメンバーが一定のアーティストグループは日本で他に例をみない[3]。 2011年、ドイツのデュッセルドルフ美術館にて個展「The Group 1965ーWe are boys! 」を開催。

  • アーティストグループの昭和40年会は、「オレたちは昭和40年にうまれた。それだけだ」を標榜し、昭和40年生まれのアーティストが集まって結成された団体である。アートフェア「国際コンテンポラリーアートフェスティバルNICAF1994」の会場で、若手アーティストが集まり話をしていたところ、偶然にも全員が昭和40年生まれということが判明し、結成された。
  • 何回かメンバーチェンジを繰り返しているが、1999年5月より、会田誠、有馬純寿、小沢剛大岩オスカール(2008年に大岩オスカール幸男から改名)、土佐正道(2008年脱退)、パルコキノシタ、松蔭浩之の7名のメンバーで固定している。初期には申明銀、曽根裕も参加していた。
  • マニフェストには、同じ年にうまれただけ、と標榜しているが、風刺と笑い・ナンセンスを作品のテーマに採り入れ、パフォーマンス・アートを手がけるなどの点で共通点がある。また、1990年代前半にはギンブラート、新宿少年アートなどの街頭展に参加したり、国際的な動きともなった「参加芸術」を興すなど、いくつかの点で現在のアートシーンの基礎を造る形で活躍した集団である。
  • メンバー全員が40歳になる2005年には、それを記念して通年の企画「40×40プロジェクト」を展開した。昭和40年会名義で発表された作品の一部は深瀬記念視覚芸術保存基金や現代美術製作所に収蔵されており、広島市現代美術館で開催された回顧展「七人も侍」(2005)をはじめとする展覧会で展示されている。
  • 自主ギャラリー(インディペンデント・スペース、ニュートラル・スペースとも呼ばれる)や新しい形のアーティスト・グループの台頭にも連動しており、スタジオ食堂、コマンドNなどと並んで、1990年代以降の日本の現代アートシーンを語る上では欠かせないグループのひとつである。

昭和40年会 略歴

  • 1994年 - NICAF会場にて結成 パシフィコ横浜
  • 1996年 - 開発、申、曽根脱退
  • 1998年 - 土佐正道(明和電機 当時)加入
  • 1999年 - 有馬純寿加入
  • 2008年 - 土佐正道脱退
個展
グループ展
  • 1998年
    • 「竹尾コミュニケーションペーパーショウ」 - スパイラルホール、東京
  • 2005年
    • 「バンクアートライフ」 - バンクアートスタジオNYK、神奈川
    • 「サーシブ(40)」韓国アーティストグループ(368世代)とのジョイント展 - ループ、ソウル韓国
  • 2013年
  • 2016年<開催予定>
イベント、トーク、キュレーションなど
  • 1994年
    • 結成記者会見パフォーマンス - NHKスタジオ、東京
  • 1996年
  • 1997年
    • 記者発表パフォーマンス - 現代美術製作所、東京
  • 1999年
    • 「スタジオ食堂 vs 昭和40年会」トーク - ナディフ、東京
    • 「晴れたり曇ったり」VHSリリース
  • 2000年
  • 2004年
  • 2005年
    • 「昭和40年会はお熱いのがお好き」パフォーマンス - 別府プロジェクト、大分
    • 「松蔭浩之のバースディ・パーティ」 - バンクアート1929、神奈川
    • 「七人の小侍 + 1」(キュレーション、昭和40年会+長谷川仁美) - ギャラリーアンポンタン、東京
    • 「サーシブ(40)」オールナイトイベント - ループ、ラティーノ、ソウル、韓国
  • 2005年-2006年
  • 2008年
    • 「昭和40年会の東京案内」出版記念トーク - 新宿ブックファースト、ナディフアパート、東京
    • 「昭和40年会の東京案内」出版 アキオナガサワパブリッシング
    • 「晴れたり曇ったり」DVD ミアカビデオアーカイブ
  • 2009年
    • 「昭和40年会の東京案内」出版記念トーク - アセンス、大阪

出版等

  • 「昭和40年会カタログ」(1998年)
  • 昭和40年会ザ・ムービー「晴れたり曇ったり それはいままでで、一番あつい夏休みだった」(1999年/日本作品/65分/COLOR)
  • 「おまえの何が現代美術(アート)なのか」(アートマガジンLR17号、1999年)
  • 「昭和40年会の東京案内」(2008年)

出典・脚注

  1. ^ アートフェア東京の前身。1992年に始まった国際コンテンポラリーアートフェスティバルの略称。日本/アジア圏で初めての本格的なアートフェア。2005年よりアートフェア東京に名称を変更する。
  2. ^ 昭和40年会; 内田,伸一『昭和40年会の東京案内』(特装)Akio Nagasawa Publishing、2008年。 NCID BA87207340 
  3. ^ 具体美術協会は1954年から1972年までの19年間活動していたが、彼らはかなり多くの会員で構成されており昭和40年会のような小さなアーティストコレクティブでの長い活動は他に例がない。

外部リンク


昭和40年会(アーティストグループ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:33 UTC 版)

「昭和40年会」の記事における「昭和40年会(アーティストグループ)」の解説

1994年NICAF 会場会田誠小沢剛大岩オスカール松蔭浩之らが話し込んでいた。彼らは全員昭和40年1965年生まれであることに気づき、昭和40年会を結成することになった。 同じ年に、昭和40年会発足アナウンスのため、NHK会場借りて急遽記者会見パフォーマンス行った記者会見出席した当時会員会田誠小沢剛大岩オスカール曽根裕、パルコキノシタ(当時パルコ木下)、松蔭浩之評論家開発チエの7名だった。会長松蔭浩之マネージャー当初は関ひろこが暫定的に行っていたが、1997年からは長谷川仁美が担当している。 その後女性アーティストの申明銀が加わったが、女性の申と開発1996年二人とも辞め、同じ年に曽根裕方向性違いから脱退した初期展覧会下北沢シナプス画廊での「昭和40年会」展(1996年)や、青山スパイラルホール東京)の竹尾ペーパーショウ(1998年)では、それぞれ個々作品同世代テーマ見せるというものであったバルセロナローザンヌワイマール東京巡回したVoices from Tokyo」展 にしてもやはり同じよう個々作品展示日本人若手展覧会という内容であったが、日本の現代美術自体があまり知られていない時期ヨーロッパで展示紹介と言う点で大変意味のあることであったいくつかの地元メディアにも大きく報じられた。 1998年当時明和電機土佐正道加入つづいて1999年にサウンドアーティストの有馬純寿が加入した1997年から2000年は、昭和40年会の初め日本国外への巡回展実現した年でもあった。1999年にはメンバー全員出演した映像作品、「晴れたり曇ったり」をリリーストークイベント展覧会開催2002年から2003年多くメンバーがアーティストレジデンスなどで日本国外滞在していたため、事実上活動休止していた。大岩オスカールは現在もニューヨーク在住である。 2005年には昭和40年会が40歳になる年として、40X40プロジェクト題しそれぞれのバースディにパブリックイベント、美術手帳での連載コラム韓国ソウルでのイベントパフォーマンス、バンクアート(横浜)や東京ワンダーサイトでの展覧会同年12月会長松蔭浩之誕生日には、大規模なオールナイトパーティを行うという1年であった2008年には、「昭和40年会の東京案内」を出版、ナディッフでの展覧会行った同年土佐正道脱退した2008年書籍「昭和40年会の東京案内」が出版された。これは、2005年1月から2008年7月のほぼ3年半にわたり、リアルトーキョーというウェブサイト連載されたものでメンバー代わる代わる東京について書いたエッセイである。東京案内題しつつ、様々な事件身の回り出来事思い出から、地方出身者負い目まで様々な物語語られる当初は昭和40年会独特のイメージである「昭和東京」やレトロな名所語られることが多かったが、回を重ねに連れそれぞれ独自の語り口になっていく。同年出版記念兼ねてナディフ(東京恵比寿)にて展覧会トークイベントが行われた。 昭和40年会の特徴のひとつといえば、彼らがそれぞれかけ離れたと言ってもよいほどの異な芸術表現行っていることである。インスタレーション絵画サウンドアートパフォーマンスニューメディア、コミュニティ・ベースド・アート。それぞれ一つ分野だけでなく活動しており、中には有馬純寿と松蔭浩之のように、コラボレーション制作Star, Echo) を行った例もある。また、媒体だけではなくその作品テーマもかなり異なっている。 それぞれの個々展覧会とは異なり、昭和40年会としての展覧会はやはり彼ら自身育った時代背景共通のテーマしたものになることが多い。1965年生まれ世代は、1970年初めての日本での万国博覧会子供時代見て日本高度成長を目のあたりにして右肩上がり未来を信じて育った世代である。テレビ草創期育ち小学校高学年には初めてのテレビゲーム夢中になった。1980年代には、「新人類」と呼ばれていた。また、1980年代終わりから1990年代にかけてのバブル崩壊社会人始まり体験し大きな価値転換余儀なくされた経験を持つ。 2011年現在メンバーは、会田誠有馬純寿、小沢剛大岩オスカール、パルコキノシタ、松蔭浩之の6名となっている。17年もの長きにわたり、ほぼメンバー一定のアーティストグループは日本で他に例をみない。 2011年ドイツデュッセルドルフ美術館にて個展The Group 1965We are boys! 」を開催。 アーティストグループの昭和40年会は、「オレたち昭和40年うまれたそれだけだ」を標榜し昭和40年生まれアーティスト集まって結成され団体である。アートフェア国際コンテンポラリーアートフェスティバルNICAF1994」の会場で、若手アーティスト集まり話をしていたところ、偶然に全員昭和40年生まれということ判明し結成された。 何回メンバーチェンジ繰り返しているが、1999年5月より、会田誠有馬純寿、小沢剛大岩オスカール2008年大岩オスカール幸男から改名)、土佐正道2008年脱退)、パルコキノシタ、松蔭浩之の7名のメンバー固定している。初期には申明銀、曽根裕参加していた。 マニフェストには、同じ年にうまれただけ、と標榜しているが、風刺笑いナンセンス作品のテーマに採り入れパフォーマンス・アート手がけるなどの点で共通点がある。また、1990年代前半にはギンブラート、新宿少年アートなどの街頭展に参加したり、国際的な動きともなった参加芸術」を興すなど、いくつかの点で現在のアートシーン基礎造る形で活躍した集団である。 メンバー全員40歳になる2005年には、それを記念して通年企画40×40プロジェクト」を展開した。昭和40年会名義発表され作品少しだけ深瀬記念視覚芸術保存基金現代美術製作所収蔵されており、広島市現代美術館開催され回顧展七人も侍」(2005)をはじめとする展覧会展示されている。 自主ギャラリー(インディペンデント・スペース、ニュートラル・スペースとも呼ばれる)や新しい形のアーティスト・グループの台頭にも連動しており、スタジオ食堂コマンドNなどと並んで1990年代以降日本現代アートシーンを語る上で欠かせないグループのひとつである。

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