御荘氏
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| 御荘氏(絶家) | |
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| 本姓 | 宇多源氏源資賢流→藤原北家勧修寺流支流町家庶流 |
| 家祖 | 源資賢 町経員 |
| 種別 | 公家 → 武家 |
| 出身地 | 山城国 |
| 主な根拠地 | 伊予国宇和郡常盤城 |
| 著名な人物 | 御荘冬顕 勧修寺基詮 |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
御荘氏(みしょうし)は、日本の氏族のひとつ。中世に伊予西部を領した氏族。本姓は源氏(宇多源氏)、後に藤原氏。家系は宇多天皇の子・源資賢流、のちに勧修寺流(勧修寺家やその庶流・町家)の支流。宇多源氏流は谷氏、勧修寺流は勧修寺氏や町氏とも呼ばれる。
概要
青蓮院坊官谷氏流御荘氏
『華頂要略』坊官伝の記事から、坊官家谷氏は青蓮院門跡の坊官家であることがわかる。同系図によると、定賢は宇多天皇の孫・源資賢の子とされる。『尊卑分脈』には源資賢の子息の中に定賢なる人物は見出せない。また同系図によると、資賢の子に賢猷(按察使、資賢卿子)と記されているが、この賢猷も『尊卑分脈』には資賢の子として名前はない。この賢献は『門葉記』によると、建仁4年(1204年)5月29日に青蓮院門主慈円の弟子・真性が拝堂登山した際に、その供奉行列に加わっている。定賢や賢猷は『尊卑文脈』に見えないものの、他の史料や複数の系図には名前が見えることから、存在や事績は事実であると考えられる[1]。
定賢の子で賢猷の甥である賢俊の子・円賢は、嘉禎3年(1237年) 頃に青蓮院門跡領の般若房領の給主職を永快阿開梨から譲与された。さらに円賢の孫で隆賢の子である玄賢は文保3年(1319年)3月29日に仙洞(常盤井殿)において尊勝陀羅尼供養が修せられた際に、当時の青蓮院門主・慈道法親王の供奉行列に加わり、前駈坊官としてその名を認められる。また玄賢の弟・尋慶は、恐らく隆賢の実子ではなく、『門葉記』によると嘉暦元年(1326年)12月27日の伏見院皇子(後の尊実法親王)の入室の際、有職役を勤めているが、その付証には「尋慶阿閣梨雅世朝臣子」とあるように、実際は久我雅世の子であって。それが後に隆賢の猶子となったと考えられる。玄賢の子・経賢は「観自在寺領主」と注記があるように、坊官谷氏のうち賢俊が慈円に、玄賢が慈道法親王に奉仕したように代々この坊官家は青蓮院門主に仕える家柄であった。なお、経賢は「十楽院坊官」とされる場合もあるが、南北朝時代には十楽院=青蓮院である。この坊官家は玄賢以前に十楽院門跡と関係がなく、玄賢以前にこの坊官家と観自在寺が無関係であったと考えられる。両者の関係が生じたのは、尊道法親王が青蓮院門主の時代であり、経賢が観自在寺の領主となったことがきっかけで関係が生じたと見られる。経賢以後は『華頂要略』坊官伝には「此間中絶、尊純法親王御代御再興」と記している。この坊官家の再興に関しては、同坊官伝によると、泰音(斎部康利の男)の条に「同(正保三)年七月八日、谷旧家再興、相続被仰付、為大谷泰重猶子、被補坊官」と記載している。即ち、経賢以後の青蓮院坊官谷氏は断絶し、享保3年(1718年)7月8日に斎部氏(御倉小舎人)の出身である泰音が大谷泰重の猶子となって坊官に補任され、旧谷氏を再興したとする。しかし、江戸時代における旧谷氏が再興されたという事実はあったものの、その実は、経賢以降の坊官家谷氏が断絶したのではなく、室町初期までに在地に土着して武士化したと考えられる上、応仁3年(1469年)に青蓮院門主・尊応法親王から所領を安堵された承賢のように、「賢」を通字とする坊官家は存続していた。坊官家谷氏が家領に土着した結果、青蓮院門跡との関係が疎遠となり、それが断絶と見なされるに至った所以であると見られる。そして、門跡と疎遠となったことが、坊官家谷氏の門跡内での地位を決定づける結果となった。他の坊官家である大谷氏・長谷氏・鳥居小路氏などの坊官家が青蓮院庁(政所)の事務を執る長官である門跡雑務職(=庁務)に多く補任されているのに対し、谷氏の中で門跡雑務職に補任される者が1人もいなかった。青蓮院坊官谷氏は経賢以後、家領である観自在寺(=御荘)に下向し土着した。自己の領知する所領に下向したのは谷氏のみではない。南北朝時代には坊官の在国化(家領への下向)するケースは複数見られた。康暦元年(1379年)12月には、門跡坊官の結番不履行について青蓮院庁は「不謂在国遠行之仁、番帳可載名字候也」と厳命を下していることからも窺える。しかし、土着して在地名(荘)を姓としたのは、谷氏以外には越前国の莇野氏のみである[2]。
永享4年(1432年)1月26日には室町幕府から御荘氏一族に軍勢催促の御教書が発給されている。この御教書は「一通宰相法眼号御庄惣領云々、一通中納言法眼号竹中庶子」とされ、惣領・庶子別々に発給されている。永正2年(1505年)11月15日に、御荘内の三島神社(現在諏訪社に合祀)の社殿が造営された時の棟札によると、法眼承賢・法眼能寛が共に大願主として併記されている。法眼承賢は応仁3年(1469年)に尊応法親王から所領を安堵された法橋承賢と同一人物であろうから惣領であり、能寛はその庶子であると考えられる。翌永正3年(1506年)3月17日付の御荘内の諏訪大明神社再興の際の棟札によると、領主として先に見た承賢、その子・助賢が記されている。さらに当願主として前に見える能寛・能憲が記され、一族と思しき信女という女性の息災延命を祈願している。以上からみると、祭祀の場における御荘氏一族の族的結合は緊密であったことがわかる。そしてこのような惣庶関係は戦国期に至るまで続いたと想像される[3]。
勧修寺家流御荘氏
『宇和旧記』は戦国時代の御荘氏を勧修寺家とし、比叡山の知行所である街荘の収納を掌っていた預僧の子孫とする。『尊卑分脈』や『諸家知譜拙記』によると、勧修寺家庶流の町家が御荘を称している。町家は勧修寺経顕の舎弟・町経量を始祖とする勧修寺家庶流である。町経時の子・町顕郷は一条家の諸大夫 (=家司)であったため、応仁2年(1468年)に一条教房が家領の土佐国幡多荘に下向した際に随行したと思われる。顕郷は幡多荘に約10年滞留し、そのまま同地で逝去している。一条教房の子孫は幡多荘に土着し、武士化して土佐一条氏となった。戦国時代に入ると、土佐一条氏の勢力は幡多郡に越えて隣郡の高岡郡にまで伸長し、伊予国南部にも波及し、両国の国境附近に位置する青蓮院坊官御荘氏は一条氏と対立を余儀無くされたと考えられる。具体的には不明だが、青蓮院坊官御荘氏と土佐一条氏との間に軍事的衝突があったと見る方が自然である。その後に土佐一条氏の家司である勧修寺家流町家の町顕賢が御荘姓を継承しているのは、形式上は町家と青蓮院坊官御荘氏が平和裡に合体したと推測される。ただし実質的には、土佐一条氏による青蓮院坊官御荘氏の併合が行われたと考えられる[4]。
勧修寺家流御荘氏が形成された時期は、御荘氏初代の町顕賢の兄・町顕量は永正から天文に至る間に活動が確認でき、顕賢の子・町顕冬は天文から永禄年間に活動が確認できるから、永正の末年から天文年間にかけてであると考えられる。勧修寺家流御荘氏の成立後も青蓮院坊官御荘氏は滅亡したわけではなく、天文10年(1541年)6月3日に越前国気比大社遷宮に際してその費用を負担することになっていた朝倉孝景が気比社の領主青蓮院門主に返言をしているが、その返書の宛所は「谷大進法橋御坊」となっており、しかもその返書は門主への披露状の形式をとっていることからも、この谷大進法橋は門主の取次役たる坊官で、在京していたことになる。青蓮院坊官谷氏は南北朝未葉に家領観自在寺(御荘)に下向して土着して御荘氏となったが、永正末年から天文年間に至る間に、勧修寺家庶流町家が御荘氏となったことから、その際青蓮院坊官御荘氏は上洛し姓を谷に復して、再び門主の身辺に祇候する坊官となったか、南北朝末期に家領に下向した一流とは別に、京都に留まった谷氏の一流が存在したかのどちらかである[5]。
土佐一条氏の家臣である町家が御荘氏を襲領したので、御荘氏と土佐一条氏は緊密な関係を保った。天正3年(1575年)に豊後国に追放されていた一条兼定が幡多郡回復を企図して帰国すると、御荘氏はそれを支援した。土佐一条氏の滅亡後は、それに代わって幡多郡に進出した長宗我部氏への脅威から、御荘氏は伊予西園寺氏に接近し、同盟関係を構立したものと推測される。その後、南予地域から進攻してきた強力な長宗我部氏軍に対し、御荘氏は防戦したものの、結果的に敗北して軍門に降っている[6]。
顕賢の子・御荘冬顕は、永禄4年(1561年)4月5日付の諏訪大明神社再興の棟札によると大永3年(1523年)に生まれたとされる。『歴名土代」とこの棟札は冬顕と記すが、『尊卑分脈』所収の系図では顕冬と記されている。勧修寺家流町家は町賢郷以後は全て賢を名に冠するため、顕冬の可能性が高いものの、両方を称した可能性もある。天文から永禄年間にかけて豊後国の大友氏が宇和郡へ数度侵攻してきた。永禄元年(1558年)6月には、臼井七郎と比治六右衛門が、1000余騎を率いて御荘に来襲した。勧修寺某は一族をあげて敵を退けた。その人物の名を『清良記』は記していないが、年代的に冬顕であったと考えられる。永禄3年(1560年)8月に大友氏は再び大軍を動員して宇和郡の各所を攻撃した。同年9月に御荘殿は敵将菊地次郎に降ったが、この時の御荘殿もおそらく冬顕であったと考えられる。翌4年(1561年)4月5日に冬顕は城辺村の諏訪大明神社を再建し、一家の息災延命を祈願した。冬顕の子・御荘定顕は天文10年(1541年)生まれであるが、『尊卑文脈』には名前が見えず、顕冬の子として顕古の名が見えている。定顕と顕古が同一人物の可能性もあるが不明である[7]。
名前に顕の字を冠する者は本家筋である一方、基の字を冠する勧修寺家の一族もおり、そちらは庶流であった。勧修寺左馬頭基詮、その子の基賢、その子の基経の3代が確認できる。永禄7年(1564年)には基詮と子の基賢が城辺村愛宕山大権現社を建立している。御荘氏が長宗我部氏に降伏した後、天正15年(1587年)1月、御荘権太夫基経が被官の尾崎藤兵衛尉に所領を宛てがっている[8]。居城は常盤城であり、基詮の娘は土居清良に嫁いだという[9]。
脚注
注釈
出典
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 石野弥栄「伊予御荘氏と青蓮院門跡観自在寺(下)」伊予史談会『伊予史談 (213)』(伊予史談会、1974年)
- ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
- ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
- ^ 矢野和泉『河後森城史考 : 南予中世史断章』(矢野和泉、1990年)
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