小田平集落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 08:07 UTC 版)
小田平集落(こだびらしゅうらく)は現在の長崎県長崎市西出津町を指す旧称・郷名で(自治会に名称を残す)、隠れキリシタンが切り拓いた集落の景観を保持しているとして文化財保護法に基づく重要文化的景観「長崎市外海の石積集落景観」の中核を成し、2016年に世界遺産登録審査予定である長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産「出津教会堂と関連遺跡」の一部として旧出津救助院とともに対象となっていたが、国際記念物遺跡会議の「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘により2016年2月9日に閣議了解で長崎の教会群とキリスト教関連遺産の推薦が一旦取り下げられ、7月25日に改めて2018年の審査対象となった(2018年6月30日に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として世界遺産登録が決定[1][2])。この際、それまで構成資産の主体であった出津教会堂と旧出津救助院が禁教明けの明治時代になってから建てられたものであり、再推薦では「外海の出津集落」すなわち小田平集落を主体とし、教会堂と救助院は集落に包括される形式となった。
補注
- ^ 急峻な地形で弥生文化を代表する稲作は棚田や灌漑技術が未発達だったため行われなかった
- ^ 五島の重要文化的景観「新上五島町崎浦の五島石集落景観」は小田平など外海地区から移住したキリシタンが技術を伝播したとされる
- ^ 旧出津救助院が建つ場所は巡察来村する代官の番所として使われた庄屋宅跡地で、江戸時代を通して踏絵は行われていた
- ^ 天福寺には現在も潜伏キリシタン神具の十字架・メダイ・ロザリオやオラショ(祈祷書)が託されており、1979年(昭和54年)に本堂を建て替える際にはカトリックに復帰した信者から多くの寄付が寄せられた
- ^ 古文書では「悉津」の表記もある
- ^ 1865年(元治2年)の信徒発見に続く長崎各地よりの大浦天主堂詣でに小田平・出津からの記録がなくベルナール・プティジャン神父自らが密かに小田平に出向いており、この時まで潜伏していた
- ^ ド・ロ神父の斡旋により出津から平戸へ移住した者もおり、田平天主堂はそうした人々によって建立された
- ^ 自身は「旧キリシタン」や「はなれ」と自称する
- ^ 環東シナ海文化の影響(例えば沖縄の世界遺産琉球王国のグスク及び関連遺産群のグスクに見られるような石垣)を示唆する研究もある
- ^ 東出津では稲作が行われ、田圃を構築するため古い石積み景観が損なわれた
- ^ 小麦は旧出津救助院に併設されたマカロニ工場に持ち込まれ、現在では特産品の「ド・ロさまそうめん」として継承されている
- ^ 小麦はミサにおける聖体を作る目的もある
参照
- ^ “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”. 産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
- ^ “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”. 読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
- ^ 出津遺跡 - 長崎県教育庁
- ^ 岩﨑義則「五島灘・角力灘海域を舞台とした一八~一九世紀における潜伏キリシタンの移住について」『史淵』第150巻、九州大学大学院人文科学研究院、2013年3月、27-67頁、doi:10.15017/26230、hdl:2324/26230、ISSN 0386-9326。
- ^ 3千人規模のキリシタン移住 史実裏付ける家系図が発見 - クリスチャントゥデイ 2008年12月30日
- ^ 山口百々男『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 -日本のユネスコ世界文化遺産-』サンパウロ、2020年。ISBN 978-4805664179。
- ^ 長崎の教会群インフォメーションセンター
- ^ おらしょ-こころ旅 長崎県世界遺産登録推進課
- ^ ムンシ・ロジェ・ヴァンジラ『村上茂の伝記 カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者』聖母の騎士社、2012年、285頁。ISBN 978-4882163435。
- ^ 長崎市外海の石積集落景観 - 奈良文化財研究所
- ^ 大村藩の産業・交通と領民生活 (PDF) - 大村市
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