女流棋士 (将棋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/31 16:30 UTC 版)
将棋の女流棋士(じょりゅうきし)は、女性の棋士である。日本の将棋界では、「プロ棋士の制度(男女の区別なし)」と「女流棋士の制度(女性のみ)」という2つのプロ制度が併存しており[1] [注釈 1]、狭義(制度上)の「女流棋士」は後者を指す。
- ^ 囲碁界(日本棋院・関西棋院)においては、男女の区別がない「棋士の制度」のみが存在し、囲碁界で用いられる「女流棋士」という言葉は、制度の違いを表すものではなく、「女性である棋士」を表すものに過ぎない。ただし、囲碁界での棋士の採用については、人気の高い女性棋士を増やして囲碁の普及に資するため、棋士採用枠とは別に、女性のみを対象とした女性棋士採用枠が設けられている[2]。棋士採用枠で女性が棋士に採用されることも可能ではあるが、謝依旻が2004年に採用された(棋士採用枠で採用された女性では4人目[3])のが最後である(2018年現在)[2]。
- ^ 例外として花村元司は1944年に、瀬川晶司は2005年に、いずれも制度によらない特例措置により、奨励会を経ずに棋士になった。日本将棋連盟は2006年に「プロ編入試験(現・棋士編入試験)」を制度化し、アマチュア(男女を問わない)・女流棋士が、奨励会を経ずに棋士になる道を正式に設けた[12]。男性アマの今泉健司は2014年にプロ編入試験に合格し、2015年4月1日付で棋士になっている[13]。
- ^ ただし、すでに兼業していた矢内と碓井は特例として引き続き在籍が認められた。
- ^ a b 日本将棋連盟は、2019年10月から、従来の「プロ編入試験」の名称を「棋士編入試験」に変更した[18]。名称変更は、アマチュアに加えて女流棋士も受験することが想定されることを考慮したもの[18]。試験の名称を変更した以外は従来と同じ[18]。
- ^ 女流棋士の男性棋戦での初勝利は、1993年12月9日、中井広恵 対 池田修一六段戦(第7期竜王戦6組)[23]。この時点まで女流棋士は男性棋戦で38連敗であった[23]。
- ^ 2005年時点の状況は次のとおりであった[31]。給料はなく、国民年金と国民健康保険は全額自己負担であり、「日本将棋連盟のアルバイト」の待遇であった[31]。女流棋士が連盟から受け取れるのは女流公式戦の対局料のみで、女流棋士の平均額は年間100万円程度であり、清水市代が女流4タイトル独占(1996年度・1998年度、当時の女流タイトルは4つ)を果たした時に年間1千万円を超えた例があるのみであった[31]。仮に1勝もできなければ、対局料は年間15万円程度に過ぎなかった[31]。人気女流棋士は対局料以外の収入(イベント出演・アマチュアへの指導など)で補うことができたものの、コンビニエンスストアでアルバイトをして糊口を凌ぐ女流棋士も存在した[31]。
- ^ 2011年度に日本将棋連盟が公益法人に移行するまで、男性棋士は一般企業の社員のような待遇を受けており、月給と年2回の賞与が支給され、厚生年金・社会保険も完備していた[32]。2017年現在、男性棋士の平均年収は500万円 ‐ 700万円とされる[33]。
- ^ 2010年11月12日時点での該当者は、甲斐智美、里見香奈、清水市代、関根紀代子、長沢千和子、斎田晴子、矢内理絵子、千葉涼子、および引退女流棋士の谷川治恵の計9名。
- ^ 女流プロ入り前(奨励会員、アマチュア)のタイトル獲得歴は対象外。タイトルを保持して連盟へ女流プロ入り後に番勝負で防衛した場合はタイトル獲得者として扱われ、正会員となる。
- ^ LPSAについては2007発足当初は、日レス杯または天河戦で優勝1回ないし準優勝2回、あるいは1dayトーナメントの個人戦で優勝3回など独自の棋士規程を定めていたが2014年以降の二度の改定により、女流棋士になるための条件は連盟のものとほぼ同一となった。ただし、完全に同一ではなくLPSAについては「師匠の有無を不問とする」、およびアマチュアから女流2級でプロ入りする際の年齢制限が「満40歳未満」の部分が連盟と違う。
- ^ この制度を利用して女流棋士になったのは礒谷真帆(2018年11月)[41]、野原未蘭(2020年9月)。
- ^ この制度を利用して女流棋士になったのは岩根忍(奨励会1級→女流1級、2004年4月1日)、伊藤沙恵(奨励会1級→女流初段(奨励会時代に女流棋士の昇段級規定の「女流初段」に該当する実績を挙げていたため)、2014年10月1日)、加藤桃子(奨励会初段→女流三段(奨励会時代にタイトル8期獲得の実績を考慮されたため)、2019年4月1日)、西山朋佳(奨励会三段→女流三段、2021年4月1日)、今井絢(奨励会1級→女流1級、2023年2月1日)の5名。
- ^ 1989年までは女流3級(仮会員)となり、年度指し分けなど規定の成績を上げると女流2級になった。
- ^ なお、女流3級となる以前にアマチュア扱いで参加した女流棋戦において「女流棋士の昇段級規定の『女流1級』に該当する」成績を上げた場合、女流3級を経験せずに直接女流2級となる。
- ^ LPSAにおいては、2014年5月の棋士規程改定(公益社団法人日本女子プロ将棋協会 棋士規程(2014年5月30日版) 2020年11月18日閲覧 2017年10月21日時点のアーカイブ)により、奨励会を6級以上3級以下で退会した女性奨励会員に女流3級の資格を認めていたが、この制度を利用してLPSA所属の女流棋士となった女性奨励会員はいなかった。
- ^ ただし、申請時点で27歳未満であること、連盟所属の場合は師匠がいること(不在の場合は半年以内に師匠を決めること)、未成年者の場合は親権者または保護者の同意があることが必要。また申請は資格取得から2週間以内に行う必要があった。
- ^ 2009年4月制度変更の当初は「女流棋士仮会員」という名称であったが、同年7月に「女流3級」に名称変更された[46]。
- ^ 2018年6月に経過措置で女流3級になった田中沙紀が最後である[47]。
- ^ 女流3級から女流2級に昇級できなかったのは田中沙紀が唯一の例であるが、田中は女流3級の取り消し後に研修会へ復帰し、規定の成績を挙げたことで女流2級としてのデビューを果たした。
- ^ 江戸時代に「棋士」という呼び方は存在しないが、便宜上用いた。
- ^ 大橋は、飛車落ちの手合いながら、当時の強豪棋士だった福島に102手での勝利[54]。大橋の具体的な活動は不明であるが、大橋という名字、女性ながら二段を名乗っていることなどから、女性の棋士[注釈 20]として活動していたとされる[54]。
- ^ しかし、明治から昭和中期までの期間、賭け将棋が横行したことなどが影響し、将棋を指す女性は激減[55]。
- ^ 1966年に奨励会を退会すると同時に初段になった蛸島彰子について[58]、スポーツ報知は「(19)67年に初の女流棋士になった」としており[59]、日本将棋連盟の機関誌『将棋世界』2018年9月号に掲載された蛸島のインタビュー記事に記載された蛸島の経歴には「(19)67年、女流二段」とある[57]。
- ^ 同じ1961年に将棋会館が中野から千駄ヶ谷の敷地に移転、2階建ての将棋会館が落成され、将棋道場が作られる[56]。同年から道場内で日本将棋連盟の女性教室が始まり、蛸島は1966年の奨励会退会後は初段[注釈 23]としてその教室の講師を務めるなど唯一の女性プロ(レッスンプロ)として活動)。
- ^ 開始時点では、プロもアマもない状態なので、単に『女流名人戦』として開催されていた。後に開始される女流プロ名人位戦は当棋戦と区別するために『プロ』とつけられた経緯がある。その後1989年に正式に女流アマ名人戦に改称。
- ^ 日本将棋連盟は、女流名人位戦が創設された1974年に女流棋士が発足したとしており、1974年を起算年として、5年おきに[60]「周年パーティー[61]」が日本将棋連盟女流棋士会によって開催されている[7][62]。
- ^ 女流棋士による史上初の公式戦である第1期プロ女流名人位戦の予選、寺下紀子女流初段 - 村山幸子女流初段の対局が、東京・将棋会館で行われた。なお、第1期は蛸島が別格とされ、その他の女流棋士5人でトーナメントが行われ、勝ち上がった寺下紀子と蛸島の三番勝負の結果、蛸島彰子が初代女流名人に輝いた。
- ^ それまではアマチュア女流棋戦の実績と棋士の推薦で女流棋士に認定されていた。
- ^ 林葉はこの影響もあり、翌1995年林葉は将棋連盟を退会した。
- ^ なお、北尾は2011年4月に日本将棋連盟に復帰している。
- ^ この時点の対象棋戦は、参加資格を女流棋士に限定していないリコー杯女流王座戦とマイナビ女子オープン。
- ^ インターネット将棋対戦サイトで実力をつけた後、女流棋士を目指し、来日して研修会に入会していた。
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