多家良村八多
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:23 UTC 版)
1889年(明治22年)から1952年(昭和27年)の大字名。米麦中心の農作経営が多いが、明治末期から大正期・昭和初期を通してミカン栽培が行われた。1941年(昭和16年)の戦時作付制限令による麦・イモ畑への転換があったが、戦後再びミカンは増産された。木炭・ビワ・柿・梅・芋なども生産した。1917年(大正6年)の生産物調査で8,000棚・ミカン7万貫(八多の今昔)。 1909年(明治42年)に宮井尋常小学校八多分教場(現宮井小学校八多分校)が設置された。同年と1917年(大正6年)に銅鐸が出土。1926年(大正15年)には電灯がともる。1938年(昭和13年)に電話が架設され、1949年(昭和24年)に八多公民館が設置された。1952年(昭和27年)に現在の徳島市八多町となる。
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