国鉄153系電車とは? わかりやすく解説

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国鉄153系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 01:47 UTC 版)

国鉄153系電車(こくてつ153けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流急行形電車である[注 1]


注釈

  1. ^ 元来は中長距離汎用形として準急列車用とされ準急形とも呼ばれたが、後に急行列車へ投入されたことから急行形に分類された。
  2. ^ 便所は付随車のみの設置で電動車にはなく、三等車には洗面所設備もなかった。しかも各車両の車端部には、通勤輸送を考慮したロングシートが存在した。さらに二等車はシートピッチが広いとはいえ固定式のボックスシートで、優等列車に使用するにはいささか物足りなかった。
  3. ^ ただし田町電車区の運用に見られるように2編成併結運用で貫通路が必ずしも使用されたわけではない。
  4. ^ 後年、一部の車両では前面強化工事と同時に前照灯のシールドビーム化が施工された。
  5. ^ 当初は字幕式ではなく「準急」などの文字板を電照する方式であったが、1961年度以降製造の500番台では字幕式に変更された。
  6. ^ 国鉄技師の星晃1953年に世界各国の鉄道事情を視察した際にスイスで見た私鉄電車の影響を受けて考案したものといわれる。また京王初代5000系などの私鉄車両にも大きな影響を与えた。なお星と親しかった同僚の西尾源太郎によれば、本系列以前の1957年に貫通構造とパノラミックウインドウを採用した名鉄5200系電車が開発された当時の星は「とっときのデザインを名鉄に先を越されちゃった」と残念がっていたという[1]
  7. ^ 高運転台にしてパノラミックウインドウを採用するデザインについては、クハ153形500番台が登場する2年前の1959年に、近鉄10100系電車の貫通形先頭車において運転台側のみではあるが採用されていた。
  8. ^ 従来の優等列車用車両は、1枚窓を上昇させるのが標準とされていたが、窓上の車体幕板部に窓を収めるスペースを作らねばならなかった上、雨の吹き込みなどを防ぐため、窓部分は組み付け精度を厳しく管理する必要があり、製造上は手間のかかる部位であった。
  9. ^ 側扉の戸袋となるため固定窓である。
  10. ^ 端子電圧375V時1時間定格出力100kW、定格電流300A、定格回転数1,860rpm
  11. ^ MT46が設計された1956年頃の段階では、私鉄電車においては富山地方鉄道モハ14770形以降、出力向上の難しい狭軌路線向け中空軸平行カルダン車についても110kW級主電動機の採用が開始されており、全電動車方式を止めてMT比1:1とする場合には110kW級クラスを採用するのが当然の状況となっていた。当時の日本国内1,067mm軌間私鉄向け電車で100kW級を採用しつつMT比1:1としたカルダン駆動車の事例は、1962年に製造された北陸鉄道加南線6000系馬車鉄道由来で地上設備が極端に貧弱であったこともあり、同系列の車体長18m級)などごく少数に留まった。
  12. ^ 両端のクハ153形以外は、営業面の要請からサロ152形2両とサハシ153形2両を組み込むため制御電動車(クモハ)が設定されていない本系列の場合12両編成ではMT比1:1の選択をせざるを得ない上に付随車6両いずれかを電動車化することもできない状況であった。後年の山陽本線急行「山陽」ではサロ・サハシを各1両減車し10両編成とすることで問題を回避した。
  13. ^ 電気機関車は並形自動連結器のため直接連結できないことと、当時は両用連結器はまだ開発段階にあった(両用連結器の本格採用はEF63形電気機関車が最初)ことから、片側に密着連結器を装着する控車あるいは中間連結器が必要となり、検討の結果、控車を使って連結する方式を採用し、塗装も本系列に合わせ湘南色とされた。
  14. ^ 加速・減速頻度が低くなるため主電動機への負荷による過熱の危険が低い。
  15. ^ MM'ユニット編成を組む国鉄新性能電車で以後に2:3の低M比を組む事例は、国鉄末期の211系でステンレス車体による軽量化および主電動機の出力向上によって問題を解消されるまで、身延線での165系電車や本系列の直接置換え車となった185系電車の付属編成など極めて例外的なものに限られた。
  16. ^ 以後の急行形電車用台車はコスト面の問題から廉価な金属ばねのDT21A・TR62を選択せざるを得なかった修学旅行用の155系・159系を除きすべて空気ばね式を採用した。
  17. ^ この車両は落成日や転属日にも矛盾や異同がある
  18. ^ 当時の準急列車には特別2等車の連結がなく、広いピッチの固定クロスシートもしくは転換クロスシートを装備した従来の一般形2等車(「並ロ」もしくは「並2」とも呼ばれた)連結であり、この水準に準拠したものである。
  19. ^ 1966年3月以降は大半が急行列車に格上げ。
  20. ^ 非冷房時代は両渡り構造のため向かい合わせで運用されたが、1969年以降は普通車の冷房化に伴い方向を統一。
  21. ^ 運転開始当初は「せっつ・なにわ」でのみ営業。
  22. ^ 利用客が通年快適に食事が摂れるサービス面ならびに当時の列車トイレは垂れ流し式であったため固定窓にして汚物の飛沫がビュフェ内に飛散するのを防止する衛生面での配慮による。
  23. ^ 寿司コーナーは職人の充足に手間取るなど要員面での問題があったため本形式でも次第に縮小、また他系列は運転地域の食文化を考慮した上での措置
  24. ^ 22は廃車後、山陽本線本郷駅に休憩所として留置。
  25. ^ 製造当初は昼行客車特急列車ですら1等車・食堂車を除き冷房装置がない時代である。
  26. ^ 非冷房車の一部はサロ112形改造後に冷房化改造を施工されたが、AU13E形分散式冷房装置6基を搭載した。
  27. ^ 大垣電車区:2・5・7・10・11 神領電車区:4・9・101・110・115・218の計11両。
  28. ^ 同車は横須賀線運用に投入。1973年に同線の東京地下駅乗り入れ開始により難燃化改造工事を施工しサロ110-1002へ改番。1987年の分割民営化時にはJR東日本へ承継。1990年廃車。
  29. ^ 103のみ1969年に先行落成。
  30. ^ 12両編成一本分しか落成していなかった
  31. ^ 臨時では1959年4月10日に皇太子(後の明仁上皇)御成婚奉祝記念列車として本系列を使用した「ことぶき」が最初であり、また当列車が料金を必要とする初の急行電車となった。
  32. ^ 準急「するが」の運転区間に一番近い車両基地は大垣電車区であるが、運用の関係上、定期列車時代の「するが」には大垣電車区所属編成を最後まで充当することはなかった。
  33. ^ 運転区間中の大きな最急勾配が山陽本線・船坂峠の10パーミル区間程度に留まったため、このような節約編成が実現した。後に変電所容量が増加されたため1965年10月のダイヤ改正で本措置は終了。
  34. ^ 「するが」および「鷲羽」に関連した運用のみ「鷲羽」用編成を使用した。
  35. ^ 1961年10月から1962年4月まで宮原電車区と田町電車区で共管。
  36. ^ 一部の「比叡」「伊吹」にも充当。
  37. ^ 東海道新幹線開業直前での田町区の151系は、使用11編成中5編成が大阪(向日町)で夜間滞泊する運用が組まれていた。
  38. ^ 151系との性能格差は小さく、本系列を充当した場合でも定時運行は可能である。また、代走充当は当初より車両運用の関係から「こだま」のみとすることを原則としていたが、例外として1960年(昭和35年)夏に1度のみ「つばめ」代走に充当された実績がある[4]
  39. ^ 極力151系に使用していた五角形のヘッドマークに似せて作った専用ヘッドマークも前面に取り付けて運行した。
  40. ^ 特にゴールデンウィークなどの繁忙期に本系列が「こだま」に投入された時は、151系に乗るのを目当てにしていた子供連れの利用客を落胆させたと言われている[5]
  41. ^ うち3両は1975年まで下関所に在籍した。
  42. ^ 同改正で大量の165系が下関所に配置されたが瀬野八急勾配区間を通過する運用では抑速ブレーキは必須である。制御回路引き通し用ジャンパ連結器は本系列用KE57A形と165系用KE64形では互換性があり混用も可能だが、クハ153形のままでは主幹制御器を交換しない限り抑速ブレーキを制御できないことから早期にクハ164形へ改造された。一方、付随車のサロ152形では抑速ブレーキの動作に必要な機器が搭載されていないために165系と混結運用を行った場合でも制御回路が結線されていれば、編成全体で抑速ブレーキの使用は可能である[6]
  43. ^ 下り1本は普通列車。
  44. ^ 後の『大垣夜行(→ムーンライトながら)』
  45. ^ 局内での呼称は「BW塗装」。その塗装から一般には「ブルーライナー」と呼ばれた。塗装変更工事は1971年頃より開始され、一時的に急行運用へも投入された。その後も検査などの都合で稀に急行に新快速色車が、新快速に湘南色車が混ざることがあった。
  46. ^ 投入当初は、冷房改造が間に合わず塗色のみ変更された車両もあった(クハ165形には冷房準備工事車もあり)が、これらも早期に改造された。
  47. ^ トレードする形で同所の165系が転出。
  48. ^ 岡山から転出のサハ153形は1972年のダイヤ改正で宮原から転入した車両。
  49. ^ 改正前の1月から組成変更が開始されMM'ユニット1組とサハシ153形を外した7両さらにグリーン車も外した6両での運転が実施された
  50. ^ 改正前急行と停車駅・所要時間ともほぼ同じ上に広島以西の運転間隔は昼間ほぼ1時間毎で実質的な格下げ。
  51. ^ ただ、東京 - 九州間の寝台特急の運転時間の大幅な短縮は1980年代後半になってから高出力・高性能な機関車(EF66形)への置き換えによって実現した。なお、1970年代には東京 - 博多間直通の在来線列車に581・583系電車を投入する計画もあったが、これは実現していない。

出典

  1. ^ 電気車研究会鉄道ピクトリアル』 1958年11月号 No.88 p11 西尾源太郎「ふくらんちゃん・へっこんちゃん~モハ90のスピード試験」
  2. ^ 工作局車両課 34年度本予算 新製車両形式番号 (昭和34年7月24日契約の分)
  3. ^ a b ビジネス特急こだまを走らせた男たち p.160 福原俊一 JTB 2003年 ISBN 4533050115
  4. ^ 交友社刊・『鉄道ファン』2018年5月号(通巻№685)名古屋レールアーカイブス広告写真
  5. ^ 星晃『回想の旅客車』上 学習研究社 2008 p97
  6. ^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』 2012年10月号No.987 特集165・169系電車
  7. ^ [1] (PDF).誤植により形式図の名称が間違っている


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