向岡桜花
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富澤政恕は文才に富み、向岡之記(むかいのおかき)をつくり、向岡八景を撰んだ。 向岡之記は1885年4月に撰文した。次のように記した(現代語訳)。「武蔵国多摩郡は多摩川の南岸を向ノ岡と称す。西は小山田関〔現多摩市関戸〕に始まり東は橘樹郡末長〔現川崎市高津区末長〕に終わる。丘陵は多摩川の流れに添って武蔵野に対して北面する。ゆえに向ノ岡という名称がある。わが郷はその首位にある。すなわち古来有名の地であって、既に新勅撰集の小野小町の和歌〔武蔵野の向の岡の草なれば ねをたずねてもあはれとぞ思う〕で有名である。この地は南側に山村が連なり、南西に晴天のもと富士の雪を仰ぐ。北に筑波の遠霞を望む。秋は武蔵野の月を見て、夏は多摩川の清流を愛でる。透きとおる川の底に石が見え、鮎は川面を遡り、釣り舟は糸を垂れる。西方、小山田関〔関戸の霞ノ関〕に路〔旧鎌倉街道〕が通り、鴻雁が雲を過ぎる。西北、青田が区切られ、傍らの一叢のヒノキ林は延喜式内の小野神社である。北方、もやの立ちこむ樹々のうらに晩を告げる鐘の音は、すなわち国分寺である。四季おりおり目新しい。これをもって八景となす。私はかつて万延元年〔1860年〕春、この岡に桜木360株余りを培い植えた。その意図はほかでもない。ただ花木とともに向ノ岡の芳名を不朽にしたいと欲したからだ。以来20年余り、枝葉は茂り桜花は見事になった。明治14年〔1881年〕、天皇がこの地に行幸し、親猟場を定められた。区域は12か村の山野にわたる。私にとって意外の幸福である。よってその実績を記し、後世に知らしめたい」。 連光寺村の向ノ岡は、行幸橋から富澤邸の門前を過ぎて左に行った先にあった。向ノ岡には、明治天皇が1881年2月20日、1882年2月15日と16日、1884年3月29日と30日に兎狩行幸の際に休憩した場所があった。また明治天皇はいつもここで愛馬を桜樹に繋いだ。天皇側近の藤波言忠が後にこれを御駒桜(みこまざくら)と命名した(現存しない)。 政恕の死後、大正から昭和初期にかけて、向ノ岡で草競馬が開催された。このことから桜馬場と呼ばれるようになった。付近には桜楽軒という茶屋も設けられた。戦前には花見時に都市部から多くの花見客が訪れて、大いに賑わった。1929年、対鴎荘という古屋敷が明治天皇に縁の深い建物として向ノ岡に移築された。対鴎荘には、戦前に多くの観光客などが訪れた。戦後になると飲食店として利用されたが、1988年に土地開発のため取り壊された。2015年、この場所の一角に公園が整備された。この公園から東側、向ノ岡桜橋に向かう道路沿いが、桜の木を多数植えたところである。 聖蹟桜ヶ丘の地名は明治天皇の行幸のあった聖蹟と、江戸時代からの向ノ岡を中心とした桜の名所とに由来する。 富澤政恕が詠んだ向岡八景のうち歌一首、題は「向岡桜花」を掲げる。 吾(わ)が植(う)ゑし 春(はる)は昔(むかし)に なりにけり 老(おい)の花(はな)さく 岡(をか)の桜木(さくらぎ)
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