向岡桜花とは? わかりやすく解説

向岡桜花

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 18:47 UTC 版)

富澤政恕」の記事における「向岡桜花」の解説

富澤政恕文才富み、向岡之記(むかいのおかき)をつくり、向岡八景を撰んだ。 向岡之記は1885年4月撰文した。次のように記した現代語訳)。「武蔵国多摩郡多摩川南岸を向ノ岡と称す。西は小山田関〔現多摩市関戸〕に始まり東は橘樹郡末長現川崎市高津区末長〕に終わる。丘陵多摩川流れに添って武蔵野に対して北面する。ゆえに向ノ岡という名称がある。わが郷はその首位にある。すなわち古来有名の地であって、既に新勅撰集小野小町和歌武蔵野の向の岡のなれば ねをたずねてもあはれとぞ思う〕で有名である。この地は南側山村連なり南西晴天のもと富士の雪を仰ぐ。北に筑波遠霞を望む。秋は武蔵野の月を見て、夏は多摩川清流愛でる透きとおる川の底に石が見え川面遡り釣り舟は糸を垂れる。西方小山田関〔関戸霞ノ関〕に路〔旧鎌倉街道〕が通り雁がを過ぎる。西北青田区切られ傍ら一叢ヒノキ延喜式内の小野神社である。北方、もやの立ちこむ樹々のうらに晩を告げ鐘の音は、すなわち国分寺である。四季おりおり目新しいこれをもって八景となす。私はかつて万延元年1860年〕春、この岡に桜木360余りを培い植えた。その意図ほかでもない。ただ花木とともに向ノ岡の芳名不朽にしたいと欲したからだ。以来20年余り枝葉茂り桜花見事になった。明治14年1881年〕、天皇がこの地に行幸し、親猟場定められた。区域12か村山野にわたる。私にとって意外の幸福である。よってその実績を記し後世知らしめたい」。 連光寺の向ノ岡は、行幸から富澤邸の門前過ぎて左に行った先にあった。向ノ岡には、明治天皇1881年2月20日1882年2月15日16日1884年3月29日30日兎狩行幸の際に休憩した場所があった。また明治天皇はいつもここで愛馬桜樹繋いだ天皇側近藤波言忠が後にこれを御駒(みこまざくら)と命名した現存しない)。 政恕の死後大正から昭和初期にかけて、向ノ岡で草競馬開催された。このことから桜馬場呼ばれるようになった付近に楽軒という茶屋設けられた。戦前には花見時都市部から多く花見客訪れて大いに賑わった。1929年、対荘という古屋敷明治天皇に縁の深い建物として向ノ岡に移築された。対荘には、戦前多く観光客などが訪れた戦後になると飲食店として利用されたが、1988年土地開発のため取り壊された。2015年、この場所の一角公園整備された。この公園から東側、向ノ岡桜橋に向かう道路沿いが、桜の木多数植えたところである。 聖蹟桜ヶ丘地名明治天皇行幸のあった聖蹟と、江戸時代からの向ノ岡を中心とした桜の名所とに由来する富澤政恕詠んだ岡八景のうち歌一首、題は「向岡桜花」を掲げる。 吾(わ)が植(う)ゑし 春(はる)は昔(むかし)に なりにけり 老(おい)の花(はな)さく 岡(をか)の桜木さくらぎ

※この「向岡桜花」の解説は、「富澤政恕」の解説の一部です。
「向岡桜花」を含む「富澤政恕」の記事については、「富澤政恕」の概要を参照ください。

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