よしはら‐しげとし【吉原重俊】
吉原 重俊 (よしはら しげとし)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 吉原 重俊 (よしはら しげとし) 明治15.10. 6 明治20.12.19 鹿児島県 |
吉原重俊は、弘化2年(1845年)に薩摩藩士の子として生まれました。12才で漢文を読みこなすなど若くして俊才の名を轟かせたと言われ、慶應2年(1866年)に藩から選ばれて米英両国に留学します。留学中の明治5年に外務省書記官となり、在米日本大使館に勤務しますが、その後大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義の下で活躍しました。明治13年に大蔵少輔(次官)となり、在任中の明治15年に日本銀行創立事務委員に任命され、日本銀行設立とともに初代総裁に就任しました。 総裁としては、当時政府と全国各地の「国立銀行」が発行していた不換紙幣の回収整理を進め、日本銀行が発行する兌換銀行券を現金通貨の中心とすることに尽力したほか、手形・小切手の流通を推進するなど、近代的な金融制度の整備に努めました。 しかしながら、病魔に冒された彼は明治20年12月、総裁の現職のまま死去しました。43歳という若すぎる死でした。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1997年夏季号)』) |
吉原重俊
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吉原 重俊(よしはら しげとし、1845年5月15日(弘化2年4月10日) - 1887年(明治20年)12月19日)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、実業家。日本銀行初代総裁。薩摩藩藩校造士館に学んだ攘夷派の志士であったが、薩摩藩第二次米国留学生としてアメリカ合衆国イェール大学初の日本人留学生として政治・法律学を学ぶ。岩倉使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省書記官となり、大蔵省に転じて大蔵卿松方正義の下で活躍した。横浜税関長、租税局長を務め初代の日銀総裁となった。
- ^ 『大久保利通日記』第二巻、日本史籍協会、126頁。
- ^ 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』中巻。560頁。
- ^ W.E Griffis「A maker of the New Orient:Samuel Robbins Brown」。ブラウン牧師の伝記であり、彼はフルベッキ、ヘボン等とともに日本の若者達にキリスト教精神を伝えた。
- ^ 高橋 秀悦 「「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助」東北学院大学経済学論集 第182号 100頁
- ^ 国友次郎と種子島敬輔の英語論文モンソン・アカデミーの卒業式で朗読された英文の紹介と考察塩崎智、拓殖大学語学研究 (129), 137-172, 2013-12
- ^ 犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』吉川弘文館、134〜144頁。
- ^ 容應萸、「19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触」 『アジア研究』 2016年 62巻 2号 p.37-60, doi:10.11479/asianstudies.62.2_37, アジア政経学会
- ^ 大山巌伝刊行会編『元帥公爵大山巌』、1935年、339頁に「3月10日夜、元帥は『フランクフルト』に向かって出発する大原を停車場に送って左の一詩を贈った」とある。
- ^ 吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』毎日新聞社、1976年、11〜23頁。
- ^ 吉野俊彦『忘れられた元日銀総裁 富田鉄之助伝』東洋経済新報社、1974年、69頁。
- ^ 『交詢社百年史』交詢社、1983年、52頁。
- ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
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