史学 ・史とは? わかりやすく解説

史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 17:30 UTC 版)

史学史(しがくし)とは、歴史学研究史である。具体的には、歴史事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また、歴史観の変遷に関する歴史のことである。




「史学史」の続きの解説一覧

史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 04:57 UTC 版)

シュテディンガー十字軍」の記事における「史学史」の解説

同時代年代記者たちは、農民対す十字軍実施するには聖地異端対す十字軍よりも明確な正当性確保が必要であることをよく認識していた。アルブリー・ド・トロワ=フォンテーヌはシュテディンガーを悪魔崇拝者関連付けようとし、他の年代記者はカタリ派結び付けようとしたが、いずれも説得力欠ける。 ヘルマン・シューマッハーは、1865年のシュテディンガー研究において、彼らに対する「異端」というレッテル無根拠であり、「無意味」ですらあると断じた。より後の時代のロルフ・ケーンは、ヨーロッパ広がる異端危機感抱いていた同時代人至極真面目にシュテディンガーの異端問題受け止めていたとしている。シュテディンガー十字軍歴史は、農民史学者十字軍史学者から注目集めている。ヴェルナー・ツィーンは、シュテディンガーの敗因は前の10年ほどの間に彼らが限界迎えていたことにあると指摘している。ツィーンによれば、シュテディンガーは既に外部勢力惹きつけるような魅力失っており、同盟者を得ることができず敗れた1970年代以前シュテディンガー十字軍研究は、もっぱらイデオロギー絡んだ目線行われていた。シューマッハーはシュテディンガーを封建制からの解放希求する者たちと捉えた国家社会主義者たちは、シュテディンガーを圧政外部教会立ち向かう自由ドイツ代表的な英雄みなした東ドイツ史学では、シュテディンガーは貴族強欲に反撃する抑圧され労働者階級とされた。

※この「史学史」の解説は、「シュテディンガー十字軍」の解説の一部です。
「史学史」を含む「シュテディンガー十字軍」の記事については、「シュテディンガー十字軍」の概要を参照ください。


史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:57 UTC 版)

ポーランド・プロイセン同盟」の記事における「史学史」の解説

ポーランド・プロイセン同盟史学研究1890年代始まり1900年ポーランドの歴史シモン・アスケナジ同盟外交的国際的な側面から考察したPrzymierze polsko-pruskieを出版した。アスケナジは、同盟失敗終わった原因プロイセン現実主義的方針比較して下手だったポーランド外交にあると論じたが、多く歴史家たちはこの考え同意していない。同盟のどの部分現実的で、どの部分ポーランド政治家たちの誤算を招くプロイセンフェイクであったかという問題については、現代の歴史家たちの間でも議論続いている。またピオトル・ステファン・ヴァンディチュによれば、この同盟からもたらされ利益不利益についても1世紀以上にわたり結論出ていない。

※この「史学史」の解説は、「ポーランド・プロイセン同盟」の解説の一部です。
「史学史」を含む「ポーランド・プロイセン同盟」の記事については、「ポーランド・プロイセン同盟」の概要を参照ください。


史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 21:25 UTC 版)

南北国時代」の記事における「史学史」の解説

南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論引き金引いたのは、北朝鮮朴時亨論文渤海研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮公的史観において、レーニン民族論をベースにして、新羅三国統一朝鮮民族(ナロードノスチ)形成契機とされていた。時亭以後は、三国鼎立南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観北朝鮮公的見解となったこれにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」(후기신라)と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国」なる用語は使わず、「渤海及び後期新羅」と表記している。北朝鮮と「朝鮮国家としての正統性を争う韓国では、遅れて佑成が「南北国時代崔致遠」(1975年)を発表し新羅渤海並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定民族主義的韓国史学において受け入れられ国定教科書記述される至っている。ただし、北朝鮮異なり統一新羅」の呼称引き続き用いられている。 朴時亨論文渤海研究のために(朝鮮語: 발해사 연구를 위하여)」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一実現しようとする同族全体一部である」している。韓東育は、「教授学術理念理解する上で役立つかもしれない」として、朴時亨学術理念をこう見る。 1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方考古調査発掘進行させるよう要求した。崔の主張大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史文化持たず国際的な地位有しない中傷した。我々は中国東北地方考古学進行させ、自己の歴史明確にし、古朝鮮発祥地探すことを要求する。周総理一面では同意示し他面では婉曲的古朝鮮が我国の東北地方起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省起源とする可能性がある。朝鮮同志は、水稲植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食生活習慣福建と同じである。また、朝鮮語一、二、三、四、五六、七八、九、十の発音と我国福建一、二、三、四、五六、七八、九、十の発音は同じであり、福建古代住民朝鮮半島渡来した可能性がある」というものであった

※この「史学史」の解説は、「南北国時代」の解説の一部です。
「史学史」を含む「南北国時代」の記事については、「南北国時代」の概要を参照ください。


史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 00:25 UTC 版)

ベルギーの歴史」の記事における「史学史」の解説

現代ベルギーの史学史は18世紀後半学者特定の州、都市領主年代記集中せずデータ蓄積に頼るようになったことで始まった。彼らは特定の歴史問題批判的な手法取り組んで学術論文書いたこの手法の発展ベルギー帝国立・王立アカデミー英語版)の推進よるものであり、ヴォルテールなどの啓蒙思想影響受けた人民歴史探索する動き反映するものでもあった。歴史上因果関係追求オーストリア領ネーデルラント通史構築することが目的であり、ベルギーという国家歴史生み出す重要な一歩となったベルギー独立したのは1830年のことであったため、19世紀末歴史家にとって「国である状態」(nationhood)を定義するのは至難の業であった当時ヨーロッパで使用言語沿って国を定義したが、これはベルギーでは使えない定義であったロマン主義者のジョゼフ=ジャン・ド・スメ(Joseph-Jean de Smet)はベルギーを死から蘇ったフェニックス」と形容した。しかし、オランダスペインオーストリアフランスドイツなど周辺諸国影響の中でベルギー過去と現在定義することは難しく避けられない問題であったベルギー国境、特にフランデレンオランダ領ではない理由説明することもまたアンリ・ピレンヌなどの歴史学者頭を悩ませ問題である。 中世学者英語版)のゴドフロワ・キュルト(英語版)はドイツの歴史レオポルト・フォン・ランケ学生であった。キュルトはリエージュ大学ランケ先進的な歴史研究手法教えた20世紀初期には中世学者アンリ・ピレンヌによりベルギーの史学史が国際的な名声得たヘント大学における歴史学はヒューベルト・ファン・ホウテ(Hubert Van Houtte)などの中世学者先駆者となった1945年以降、シャルル・ヴェルリンデン(フランス語版)が社会史におけるフランスアナール学派の手法を導入したヘント大学では植民地海事史、価格賃金歴史農業史商業史、そして織物業研究主題になった1970年代と1980年代には研究主題歴史人口学生活水準生活習慣乞食犯罪、そして思考傾向文化史広がった

※この「史学史」の解説は、「ベルギーの歴史」の解説の一部です。
「史学史」を含む「ベルギーの歴史」の記事については、「ベルギーの歴史」の概要を参照ください。


史学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 03:16 UTC 版)

農民」の記事における「史学史」の解説

古くから農民様々な文献登場するが、その多くにおいて、彼らは下等な欲求表現者もしくは田舎臭い喜劇演者として扱われ、"peasant"という言葉自体軽蔑的な意味合い用いられてきた側面がある。特にヨーロッパキリスト教世界では、社会は「働く者(農民)」、「祈る者(聖職者)」、「闘う者(王侯騎士)」の三階級に分かれるという理論一般に受け入れられていた。後にフランスで生まれたアナール学派歴史学者たちは、それまで軽視されてきた農民階層重要性指摘し始めたフェルナン・ブローデルは、その主要著書一つ物質文明経済資本主義』の第一巻を『15-18世紀 日常性構造』と題し市場経済より低層に、巨大目に見えづらい世界確かに存在していたことを明らかにした。 他にもフロリアン・ズナニェツキや費孝通らが農民史を研究しており、第二次世界大戦後ロバート・レッドフィールドは「大伝統」と「小伝統」の概念提示した1960年代になると、人類学者歴史学者世界史上で農民戦争果たした役割再考し始めた資本主義帝国主義対す懐疑論じられるようになった中で、それらに対抗する形で第三世界農民戦争多発していたことに光が当てられるようになった人類学者エリック・ウルフは、当初マルキスト的な研究行っていた。先駆者としては、封建制から資本主義への変遷の鍵として農村人々取り上げた経済学者のダニエル・ソーナーがいる。しかし後にウルフらは、マルクス主義否定する一方で農民行動起こす能力無かったとみなす従来近代化論をも批判したジェームズ・C・スコットは、マレーシアでのフィールドワーク通じて農民間接的な行動手段しか持っていないとはいえ地方政治を動かすには十分な影響力持っていることを確信したこうした行動主義的学者多くは、インドでの小作争議や、1920年代以降毛沢東率い中国革命理論振り返った一方でミーロン・コーエンは、前述通り中国農村人々が「農家ではなく農民」に相当する語で呼ばれていることに疑念呈し、これが学術的な区別でなく政治的な意図こもった用法であると述べている。

※この「史学史」の解説は、「農民」の解説の一部です。
「史学史」を含む「農民」の記事については、「農民」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「史学 ・史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「史学 ・史」の関連用語

史学 ・史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



史学 ・史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの史学史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシュテディンガー十字軍 (改訂履歴)、ポーランド・プロイセン同盟 (改訂履歴)、南北国時代 (改訂履歴)、ベルギーの歴史 (改訂履歴)、農民 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS