厚宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 09:02 UTC 版)
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厚宮 | |
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親王 | |
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父親 | 閑院宮美仁親王 |
母親 | むめ(夢女) |
配偶者 | 嘉寧宮苞子女王 |
子女 弥志彦親王 |
喜久宮(きくのみや、1797年〈寛政9年〉 - 1811年〈文化8年〉)は、日本の皇族。閑院宮美仁親王の第二王子。幼名は厚宮(あつのみや)。和を尊ぶ姿勢と温和な人柄で知られ、短命ながら多くの人々に敬愛された。
生涯
生い立ちと幼少期
1797年、閑院宮美仁親王と側室むめの間に生まれる。幼名は「若宮」。幼少期から聡明で礼儀に秀で、和歌・書道・漢詩を学ぶ。兄・致宮(のち美仁親王を継ぐ)と性格は対照的で、温厚さと調和を重んじる資質を示した。
親王宣下と宮廷生活
1805年(文化2年)、8歳で親王宣下を受け「喜久宮」に改名。紫宸殿において儀式が行われた。和歌会・書道会・礼法の講義など公的活動に参加。江戸への随行も経験し、御所における礼式と調和を支える存在となった。
1807年(文化4年)、10歳の「十年礼」の儀を受け、父の教え「己が家のため、民のため、和をもって基とすべし」を心に刻む。
結婚と家庭生活
1810年(文化7年)、13歳で嘉寧宮苞子女王と婚姻。文化7年4月2日、弥志彦親王をもうける。夫妻は敬愛の念で結ばれ、御所内外で理想の夫婦と称された。
早世
1811年(文化8年)、突然の病で薨去。享年15。墓碑には「和為貴」と刻まれた。
人柄と評価
「若き調和の君」と呼ばれ、和をもって人を導く姿勢が多くの敬愛を集めた。御所の文庫には彼の和歌が多数残る。代表的な一首として以下が伝わる。
- さきくさの 露もひとしずく 我が身には
- うつろふことの 悲しかりけり
影響と後世の評価
没後も閑院宮家の精神的支柱とされ、維新期の混乱の中でも「和をもって家を守るべし」という理念が受け継がれた。近代以降、史料の再編により研究が進んでいる。
史料
- 『閑院宮家記』
- 『紫宸殿記録』
- 『公武往復書簡』
- 宮内省編纂『近世皇族史料集』
関連項目
- 閑院宮
- 親王
- 江戸時代の宮家
脚注
参考文献
- 『閑院宮家史料』
- 宮内庁書陵部編『近世宮家の記録』
- 『和歌にみる近世皇族』
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