ラインハルト・ハーデガンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 軍人・武士 > 軍人・軍事関係者 > 騎士鉄十字章受章者 > ラインハルト・ハーデガンの意味・解説 

ラインハルト・ハーデガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 05:21 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ラインハルト・ハーデガン
Reinhard Hardegen
生誕 1913年3月18日
ドイツ帝国ブレーメン
死没 2018年6月9日(2018-06-09)(105歳)
所属組織 ドイツ海軍(Kriegsmarine)
最終階級 海軍少佐(Korvettenkapitän)
テンプレートを表示

ラインハルト・ハーデガンReinhard Hardegen1913年3月18日2018年6月9日)は、ナチス・ドイツ海軍軍人潜水艦Uボートの艦長。

略歴

ブレーメン出身。1933年にドイツ海軍に入隊。軽巡洋艦「カールスルーエ」などに勤務して世界各地を親善航海した。1939年11月から潜水艦学校で学び、U-124の先任士官となった。1940年12月に第1潜水艦隊に属するIID型UボートU-147の艦長となった。最初の航海で北海において9000トンの蒸気船を沈めた。続いて1941年5月、第2潜水艦隊のIXB型UボートU-123の艦長となる。最初の航海で30,000トンを撃沈した。1941年10月にはイギリス補助巡洋艦「オーラニア」を撃破した。アメリカの参戦後の1942年1月12日から29日の間にはアメリカ沿岸で船9隻、5万3000トンを沈めた。1942年1月23日に騎士鉄十字章叙勲。1942年2月に一時期帰港したが、すぐにアメリカ沿岸へ戻り、7万9000トンの商船を沈めた。この功績で1942年4月には騎士鉄十字柏葉章に叙勲した。

優秀な指揮官と見なされていたハーデガンは、戦死を防ぐため、1944年秋に陸上勤務に移された。1944年10月から国防軍最高司令部水雷科の総監となった。1945年には海軍歩兵師団の大隊長となり、陸上戦闘の指揮を執った。生存してドイツの敗戦を迎えた。

イギリス軍の捕虜となったが、1946年11月に釈放された。戦後は石油貿易会社を経営しつつ、ドイツキリスト教民主同盟に入党し、32年にわたりブレーメン市議会議員を務め、一時は党議員団長代行を務めた。2018年6月9日に死去。105歳と、Uボート艦長の生き残りでは最年長であった[1]

脚注

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラインハルト・ハーデガン」の関連用語

ラインハルト・ハーデガンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラインハルト・ハーデガンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのラインハルト・ハーデガン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS