ポール・メシュエン (外交官)とは? わかりやすく解説

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ポール・メシュエン (外交官)

(ポール・マスーアン (外交官) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/02 01:26 UTC 版)

サー・ポール・メシュエン

サー・ポール・メシュエン英語: Sir Paul Methuen PC KB1672年12月19日(洗礼日) – 1757年4月11日)は、イギリスの外交官、政治家。ホイッグ党に属し、1708年から1747年まで庶民院議員を務めた。

生涯

外交官として

外交官ジョン・メシュエン英語版の息子として1672年に生まれ、1681年から1684年までパリイエズス会学校で教育を受けた後、1685年にインナー・テンプル入りを果たした[1][2]。1692年にポルトガル駐在イングランド公使を務める父の秘書になり、父が一時帰国したときはその代役を務めた[1]

1697年に父がアイルランド大法官英語版に任命されると正式にポルトガル駐在イングランド公使になり、1702年まで務めたが、1701年にポルトガルがフランス王国と同盟を締結するときはそれを防ぐことに失敗した[2]。1702年に父がポルトガル駐在イングランド大使になり、ポルトガルを寝返らせ1703年にはメシュエン条約の締結に成功した[2]。1705年7月にカール大公に同伴してジブラルタルへ遠征した後、同年にサヴォイア駐在イングランド公使英語版に任命された[3]。1706年に父が死去すると再びポルトガル駐在大使に転じ、1708年2月まで務めた[1][3]

政治家として

1708年イギリス総選挙ではディヴァイジズ選挙区英語版庶民院議員に当選したが、当選時点ではまだ帰国していなかった[3]。1709年から1710年にかけて下級海軍卿英語版を務めた後[1]1710年イギリス総選挙では最初は再選したとされたが、後に庶民院から落選との裁定が下された[3]1713年イギリス総選挙ではブラックリー選挙区英語版で当選したが、1714年4月20日に選挙申立て英語版により当選が取り消された(代わりにトーリー党員の当選が裁定された)[1]。1714年に大蔵卿英語版に任命され(1717年まで在任[4])、同1714年10月29日には枢密顧問官に任命された[1]

1715年イギリス総選挙ではブラックリー選挙区で再び当選、以降1747年まで同選挙区の議員を務めた[3]。1715年、スペイン駐在大使に任命されたが、病気により帰国を余儀なくされた[2]。1716年に南部担当国務大臣に任命されたが、翌年にロバート・ウォルポールとともに辞任した[3]。1720年にウォルポールが復帰するとメシュエンも王室監査官英語版に任命され、1725年に王室会計長官英語版に転じ、1730年まで務めた[3]。1725年5月27日、バス勲章を授与された[5]。1730年に国務大臣の再任を求めて失敗すると、王室会計長官を辞任、以降公職につくことはなくなった[3]。その後の議会活動では1732年にサー・ロバート・サットンを弁護[5]、1733年にウォルポールの消費税法案に反対[3]、1739年のパルド協定英語版に反対[3]、1741年12月には選挙委員会の議長選挙でジョージ・リー英語版を支持してウォルポールの推す候補を落選させた[3]。後援者の初代ブリッジウォーター公爵の死により、1747年イギリス総選挙で立候補せず議席を失った[5]

死去

1757年4月11日に未婚のまま死去、ウェストミンスター寺院に埋葬された[3][6]。遺産は約25万ポンドとされ、叔父の孫で同名のポール・メシュエン英語版が継承した[3]

米国マサチューセッツ州マスーアンはポール・メシュエンに因んで名づけられた。

人物

メアリー・ウォートリー・モンタギューによると、ゾフィア・シャルロッテ・フォン・キールマンゼックの愛人だったという[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f "METHUEN, Paul (1672-1757), of Bishops Cannings, Wilts" (英語). History of Parliament Online (1690-1715). 2019年5月6日閲覧
  2. ^ a b c d Schweizer, Karl Wolfgang. "Methuen, Sir Paul". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/18631 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Courtney, William Prideaux (1894). "Methuen, Paul (1672-1757)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 37. London: Smith, Elder & Co. pp. 312–313.
  4. ^ (英語) Burke's Peerage (99th edition ed.). (1949). p. 1370. https://archive.org/details/burkesgenealogic1949unse/page/1370 
  5. ^ a b c "METHUEN, Paul (c.1672-1757), of Bishops Cannings, Wilts" (英語). History of Parliament Online (1715-1754). 2019年5月6日閲覧
  6. ^ "John and Paul Methuen". Westminster Abbey (英語). 2019年5月6日閲覧

関連図書

  • G. F. R. Barker, ‘Methuen, John (1650–1706)’, rev. Thomas Doyle, Oxford Dictionary of National Biography, (Oxford University Press, 2004; online edn, Oct 2008), accessed 4 November 2008.

外部リンク

外交職
先代
ジョン・メシュエン英語版
ポルトガル駐在イングランド公使英語版
1697年 – 1702年
次代
ジョン・メシュエン英語版
大使として
先代
リチャード・ヒル英語版
サヴォイア駐在イングランド公使英語版
1705年 – 1706年
次代
ジョン・チェットウィンド
先代
ジョン・メシュエン英語版
ポルトガル駐在グレートブリテン公使英語版
1706年 – 1708年
次代
ゴールウェイ伯爵
グレートブリテン議会英語版
先代
ジョサイア・ディストン英語版
サー・フランシス・チャイルド英語版
庶民院議員(ディヴァイジズ選挙区英語版選出)
1708年 – 1710年
同職:ジョサイア・ディストン英語版
次代
サー・フランシス・チャイルド英語版
トマス・リッチモンド・ウェブ英語版
先代
ウィリアム・エジャートン英語版
ジョン・バーグ
庶民院議員(ブラックリー選挙区英語版選出)
1713年 – 1714年
同職:ウィリアム・エジャートン英語版
次代
ジョン・バーグ
ヘンリー・ワトキンス
先代
ジョン・バーグ
ヘンリー・ワトキンス
庶民院議員(ブラックリー選挙区英語版選出)
1715年 – 1747年
同職:ウィリアム・エジャートン英語版 1715年 – 1733年
ジョージ・リー英語版 1733年 – 1742年
セウォリス・シャーリー英語版 1742年 – 1747年
次代
セウォリス・シャーリー英語版
リチャード・リトルトン英語版
公職
先代
ジェームズ・スタンホープ
南部担当国務大臣
1716年 – 1717年
次代
ジョゼフ・アディソン
先代
ヒュー・ボスコーエン
王室監査官英語版
1720年 – 1725年
次代
フィンチ卿
先代
チャムリー伯爵
王室会計長官英語版
1725年 – 1730年
次代
ビングリー男爵



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