ドレフュス事件 (大佛次郎)
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| ドレフュス事件 | ||
|---|---|---|
| 著者 | 大佛次郎 | |
| 発行日 | 1930年10月25日 | |
| 発行元 | 天人社 | |
| ジャンル | ノンフィクション | |
| 国 | |
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| 言語 | 日本語 | |
| 形態 | 17cm | |
| ページ数 | 260 | |
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『ドレフュス事件』(ドレフュスじけん)は、小説家・大佛次郎による日本のノンフィクション小説。1930年4月から『改造』で連載された後、同年に天人社より単行本が刊行された。
フランスの冤罪事件、ドレフュス事件を題材としたノンフィクション作品。
概要
既に流行作家となっていた大佛次郎は、ヨーロッパ文学の翻訳やフランスの歴史に興味を持っていた[1]。そして1930年、『改造』1月号にフランスの竜騎兵シュヴァリエ・デオンを題材とした『シュヴァリエ・デオン』を発表した。同作品を含め、大佛次郎は同年12月にスパイを主題とした作品をまとめた『世界犯罪叢書 第3巻 軍事探偵篇』を刊行した。こうしたフランスの歴史やスパイについて調べる中で、大佛次郎はドレフュス事件に出会った[2]。
1930年、大佛次郎は雑誌『改造』内でこの事件を詳らかに書いた『ドレフュス事件』を発表した。これは大佛次郎が書いた初めてのノンフィクション小説であった。『ドレフュス事件』から始まり、大佛次郎は『ブウランジェ将軍の悲劇』(1936年)、『パナマ事件』(1960年)、『パリ燃ゆ』(1964年)といった計4つのフランス関連ノンフィクション小説を書くこととなる。
なお、本作品が日本で初めてドレフュス事件を取り上げた作品であるとされている[3]。
大佛次郎は、本作品の執筆について以下の様に語っている。
あらすじ
普仏戦争の敗戦から24年の歳月が経ったものの、フランスのドイツに対する憎悪は続いていた。その時代の最中、ある手紙が発見された。これはフランス軍に在籍する者がドイツへスパイ行為を行った証拠であった。その中で疑惑の目を向けられた人物が、アルザス出身のユダヤ人ドレフュスであった。フランス軍は手紙の筆跡がドレフュスのものと一致することから、ドレフュスを逮捕した。ドレフュスは狼狽し、一貫して無罪を主張した。しかし裁判でドレフュスの有罪判決が下された。 嘲罵の声が響く中、ドレフュスは官位剥奪式で軍服の装飾品を剥がされ、サーベルを折られた。そしてドレフュスはフランス領ギアナ沖の離島であるディアブル島のラ・サンテ監獄へ送られ、独房に収監された。
フランス本国では、ドレフュスの妻リュシイや兄マチウがドレフュスの無罪を証明しようと尽力していた。その頃、参謀本部情報部の部長にピカール中佐が就任した。彼の調査により、エステラージーの筆跡が例の密書と一致し、彼が真犯人であると判明した。しかし、その旨を上官へ報告しても一蹴された。その後、ピカール中佐はアフリカへ転任の辞令が出たために、情報部長の座から去ることとなった。
アフリカへの転任後も、ピカール中佐はドレフュスの無罪を信じて行動した。しかし、エステラージーには軍隊の友人たちの励ましや女装の怪紳士(デュ・パチイ中佐)による指示などの後ろ盾があった。また、フランス国民の大半も「ジャーナリズムが創作した国難を信じて」いた。国民の中では国粋主義・軍国主義・反ユダヤ主義が同一視され、ドレフュスに味方する者はドイツの味方であり、黒幕はユダヤ人であるという陰謀が信じられていた。
1898年1月10日・11日両日に渡り、エステラージーに対する軍法会議が開かれた。しかし、エステラージーは無罪となり、ドレフュスの冤罪は晴れなかった。
これに対し、作家エミール・ゾラは当時の大統領フェリックス・フォール宛てに「私は弾劾する(J'accuse... !)」から始まる公開状を書いた。これは1898年1月13日発行の新聞「オーロール」に掲載された。この公開状による影響はゾラ本人の想像以上に大きいものであった。ゾラはフランス人たちから猛烈な批判を受け、自宅にいることが危険となるほどであった。告訴されたゾラは裁判所でドレフュスの無罪を訴えるものの、1年の禁錮と3000フラン (通貨)の科料を課せられた。
ドレフュスが島へ送られてきて、満3年が経った。警備はさらに強化され、リュシイとの手紙も検閲が厳しくなった。ドレフュスとリュシイにとって、この時が最も耐え難い時であった。 同時期、アンリ・ブリッソン新内閣が生まれた。この内閣の下、ドレフュス事件解決を宣言した。しかし、それに対してピカール中佐が首相に対して公開状を突きつけた。
参謀本部情報部長アンリ中佐の自殺やエステラージーの出奔など、綻びが見え始めた。世論はドレフュス再審の声を上げた。それに応えようとしたブリッソン首相だが、反動派からの反対が大きく、内閣は倒壊した。軍部は続けてドレフュス再審を拒否し続けたが、陸軍大臣フレエシネの辞職により最後の一線が破綻した。そして諮問委員会はドレフュスを新たに軍法会議にかけるべきだとした。
収監されてから5年、ドレフュスは軍法会議のためにフランスへ帰国した。ドレフュスはリュシイやマチウが選んだ弁護士からの説明を受けながら軍法会議に備えた。1899年8月7日、軍法会議が始まった。これは全ヨーロッパの注目を集めた。軍法会議の結果、2対5の票でドレフュスは有罪となった。この結果に対して世界は愕然とし、当時露仏同盟を結んでいたロシアも批判した。ドレフュス自身もまた、最期まで戦い続けることを誓った。
9月13日、マチウはドレフュスに特赦の知らせを届けた。冤罪自体は晴れないことに拒否したドレフュスだが、マチウの薦めにより特赦を受け入れた。
1906年、ついにドレフュスの無罪判決が下され、ドレフュスは軍籍に戻って少佐へ昇進した。スイスに隠遁したドレフュスであったが、第一次世界大戦では砲兵として守備についた。そして大佐にまで昇進したドレフュスはスイスへ戻り、1935年7月1日に死去するまで幸せな老後を過ごした。
評価
フランス文学者の渡辺一民は、大佛次郎記念会主催の講演内で『ドレフュス事件』について述べた。『ドレフュス事件』は当時類を見ない軍部の無謬性に切り込んだ作品であり、民主主義に対して脅威となっていた軍部への警戒を呼びかけた作品であると評価した[4]。
フランス文学者の市川慎一は、ドレフュスがユダヤ人であった点も注目すべきであると述べている。大佛次郎は本作品において、ユダヤ人というマイノリティが弾圧の対象になったフランスの事実と日本の軍部による左翼思想の取り締まりを重ねていた、と市川は評している[5]。
文芸評論家の尾崎秀樹は、大佛次郎が持つリベラルな意識が軍部や右翼の行動を目視できず、ギリギリの表現で日本のファシズムに対する抵抗の思いを秘めたと評している[6]。
収録書籍
- 大佛次郎『新世界叢書 第2篇 ドレフュス事件』(天人社、1930年)
- 大佛次郎『現代日本文学全集 第60編 大佛次郎集』(改造社、1930年)
- 大仏次郎『改造文庫 第2部 第158篇 ドレフュス事件』(改造社、1931年)
- 大佛次郎『ドレフュス事件』(天壽閣、1947年)
- 大仏次郎『創元文庫 ドレフュス事件』(創元社、1951年)
- 中野好夫、吉川幸次郎、桑原武夫編『世界ノンフィクション全集 15』(筑摩書房、1961年)
- 大佛次郎『大佛次郎ノンフィクション全集 第1巻』(朝日新聞社、1971年)
- 大佛次郎『新潮日本文学25 大佛次郎集』(新潮社、1972年)ISBN 4-10-620125-9
- 大佛次郎『朝日選書19 ドレフュス事件』(朝日新聞社、1974年)(オンデマンド版 2003年)ISBN 4-925219-81-2
- 大佛次郎『大佛次郎ノンフィクション文庫7 ドレフュス事件・詩人・地霊』(朝日新聞社、1978年)ISBN 4-02-260917-6
脚注
参考文献
- 市川愼一『わたしの日仏交流史研究ことはじめ』(彩流社、2016年)ISBN 978-4-7791-2224-8
- 井上靖、山本健吉、中村光夫、吉行 淳之介、高橋英夫 編『昭和文学全集 第18巻』(小学館、1987年)ISBN 4-09-568018-0
- 大佛次郎『朝日選書19 ドレフュス事件』(朝日新聞社、1974年)ISBN 4-925219-81-2
- 大佛次郎記念会 編『大佛次郎記念館所蔵「ドレフュス事件関連資料」目録』(大佛次郎記念会、1994年)
- 大佛次郎記念会 編『「おさらぎ選書」第16集〈講演と研究発表〉論文集』(大佛次郎記念会、2008年)
- 福島行一『大佛次郎 下巻』(草思社、1995年)ISBN 4-7942-0599-6
- 福島行一『ミネルヴァ日本評伝選 大佛次郎――一代初心――』(ミネルヴァ書房、2017年)ISBN 978-4-623-07880-6
- 渡辺一民『ドレーフュス事件 政治体験から文学創造への道程』(筑摩書房、1972年)
関連項目
- ドレフュス事件_(大佛次郎)のページへのリンク