デュオの凋落
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1975年から1976年の2年の間ずっと、アルコール依存症とコカイン中毒のため、アイク・ターナーは良質な音楽を創り出すことができなくなっていた。公演も中止や延期となるものが出てきて、結果としてチケットの売り上げが低落することにつながった。ティナ・ターナーは1971年に創価学会インタナショナルに入会し、「南無妙法蓮華経」を唱えるようになっていた。彼女はこの信仰のおかげで辛い時期を過ごすことができたのだが、彼女を苦しめたのはアイクによる虐待であった。1976年7月2日、一晩コンサートを開いたことがあるテキサス州ダラスにあるダラス・スタットラー・ヒルトンに向かう途中、ティナとアイクは激しい殴り合いの喧嘩をしてしまう。到着後まもなく、ティナはアイクを置いて、わずか36セント(「25セント硬貨と10セント硬貨、そして1セント硬貨を1枚ずつ」とティナは言っている)と、モービル・ガソリンのクレジットカードだけしか持たないままで逃げ出した。ティナは1976年7月27日、裁判所に離婚の訴えを起こした。これはデュオを永遠に終わらせることを意味していた。これ以後数ヶ月の間、ティナは色々な友達の家でアイクから隠れて過ごした。アイクが離婚に同意するのを待ったのである。 ティナは後に、法華宗の信心と「南無妙法蓮華経」と唱えること、これが彼女に自分一人で生きていく勇気を与えてくれたと語っている。ともあれ、ツアーの最中にアイクを見捨てて立ち去ったことで、中止されたショーに対して彼女が法的な責任を持たねばならなくなったことを彼女は知ったのだった。一年間法廷で争った後、1978年3月29日に彼らの離婚は確定した。離婚によりティナは完全にアイクとは道を分かち、芸名はそのまま彼女のものとすること、また中止されたツアーにより生じた負債と国税庁が要求していたかなりの額の担保について彼女が引き受けること、こうしたことが決まった。
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