ズィグムント・レヴォニェフスキとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ズィグムント・レヴォニェフスキの意味・解説 

ズィグムント・レヴォニェフスキ

(シギズムント・レヴァネフスキー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/31 05:02 UTC 版)

ズィグムント・レヴォニェフスキ

ズィグムント・レヴォニェフスキポーランド語: Zygmunt Lewoniewski)またはシギズムント・アレクサンドロヴィチ・レヴァネフスキーロシア語: Сигизму́нд Алекса́ндрович Леване́вский1902年5月15日 - 1937年8月13日)は、ポーランド系ソビエト連邦のパイロットである。1934年にソ連邦英雄を受勲した。1937年、北極を越えてアメリカ合衆国への飛行の途中で行方不明となった。

概要

サンクトペテルブルクにポーランド人の家に生まれた。兄のユゼフ・レヴォニェフスキポーランド語版(1899年 - 1933年)はポーランドの軍人でパイロットであった。十月革命ボリシェヴィキに参加し、ロシア内戦では1918年から赤軍に従軍した。1925年にセヴァストーポリの海軍航空学校を卒業し、軍のパイロットとなり1930年に予備役に退いた。

1933年から 北極海航路管理局(略称:グラフセヴモルプーチ;Glavsevmorput)で働き、いくつかの長距離飛行を行った。1933年7月13日に、世界一周飛行に挑戦し、アナディリの近くに不時着したアメリカ合衆国のパイロット、ジミー・マッターンを救助した。1934年4月にはチュクチ海で沈没した汽船、「チェリュースキン」号の生存者の捜索と救援に参加し、氷上の臨時飛行場から離陸して救出したパイロットたちとともにソ連邦英雄の名誉称号を受勲した。

1935年8月、ANT-25で、G・F・バイドゥコーフロシア語版、V・I・レーフチェンコとともにモスクワから北極海を越えてサンフランシスコをめざす飛行を行い、無着陸飛行には成功しなかったが、アメリカで歓迎された後、翌年初めロサンジェルスからモスクワに帰還した。19,000 kmの飛行であった。1937年8月12日、V・F・ボルホヴィーチノフロシア語版の設計したDB-Aロシア語版で6人の乗員とともに再び北極点を超えてアメリカ合衆国をめざす飛行に挑んだが悪天候に遭遇し13日の夕方、無線通信が途絶えた。捜索が行われたが、発見されず乗員全員が死亡したと考えられた。

1999年3月、アンカレッジの鉱山会社の社員によってプルドー湾とカクトヴィックの間の浅瀬で航空機の残骸が見つかり、レヴォニェフスキの飛行機ではないかと報じられたが、回収や確認には成功しなかった[1]

脚注

[ヘルプ]

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ズィグムント・レヴォニェフスキ」の関連用語

ズィグムント・レヴォニェフスキのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ズィグムント・レヴォニェフスキのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのズィグムント・レヴォニェフスキ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS