カレッジ・テニス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 07:29 UTC 版)
「ボブ・ライランド」の記事における「カレッジ・テニス」の解説
高校を卒業した後、ニューオーリンズにある歴史的黒人大学であるザビエル大学に奨学金を得て進学し、カレッジ・テニスキャリアをスタートさせる 。翌年から第二次世界大戦下において1945年まで米軍に入隊し 、名誉除隊後に再び奨学金を受け取りミシガン州デトロイトのウェイン州立大学で2年間テニスを続けた。だが当時のアメリカには黒人差別が蔓延しており、ライランドはチームメイトと同じ宿に泊まれずチームのバスで眠ったり、同じレストランに入れなかったりということがしょっちゅうだった。それでも大好きなテニスを続け、黒人で初めてNCAA(全米大学体育協会)選手権でプレーした選手になり、人種の壁を打ち破った 。最終的に大学の殿堂入りも果たしている。 1947年にカリフォルニアに引っ越し、日中はパンチョ・ゴンザレスとテニスをし、夜は郵便局で働くという生活を送っていた 。また、ロサンゼルス・テニスクラブでも活躍したが、パシフィック・サウスウエスト・チャンピオンシップでは国内1位のハムリ・チャードソンに6–4, 7–5で敗れた 。1954年、ナッシュビルのテネシー州立大学に奨学金給付で迎えられると選手兼コーチを務め、チームをスモールカレッジ全国選手権に2度導いた。ここを卒業し、理学士号を取得している。
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