オールズモーター
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「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「オールズモーター」の解説
一方、ビュイックの事業は沸いていた。販売需要も増加し、生産は日増しに忙しくなった。日々、追加がフリント工場で生産された。デュラントは夜遅くまでフリントで働いた。同時にニューヨークでの合併の話し合いも参加し、成功裡な交渉とすべくがんばっていた。この期に、デュラントはこの合併にオールズモーターワークスを交えることに決めた。デュラントは、オールズモビルについては「アメリカの自動車創成期から操業している有名な自動車会社のひとつだが現在は困難に直面している」というほどのことしか知らなかった。 オールズモーターワークスは1899年、REオールズの初期の会社だった。ランサム・オールズが銅富豪のSLスミスの資金援助を得て設立し、デトロイトに工場を建てた。1901年に火事に遭い、すぐに建て直された。1901年にはカーブドダッシュ・ラナバウトが425台作られた。つづく4年間は年5000台以上を販売した。ランサム・オールズは1904年にスミスの息子、フレデリック・L・スミス(フレッド・スミス)とアンガス・スミスとの論争のため、社を去った。その後のオールズモーターワークスは坂を転げ落ちた。もっと凝ったモデルを出したが評判とはならなかった。生産台数は1904年に5000台だったが1908年には1055台となり苦境に陥っていた。 フレッド・スミスの話は以下の通り。「デュラントがある真夜中にランシングを訪れ、オールズのスタッフを起こした。午前3時にはオールズ工場内を15分間のツアーでギャロップして見て回った。その後、明け方までオールズ売却について話しあった。ビュイックとマックスウェル=ブリスコーが合併した後にこれに加わるという計画とした。」スミス家はモルガンが資金援助していることに興奮し、この事業に参加することに同意した。7月21日、フレッド・スミスはデュラントに手紙で合意を伝え、オールズ株4分の3を出すとした。デュラントは2社合併後のオールズ・モーター社買収までを視野に入れた。 フレッド・スミスは、ALAMを主導した人物の一人で、セルデン特許でヘンリー・フォードと法廷闘争を続けた中心人物である。
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