ウルグアイ‐ラウンド【Uruguay Round】
ウルグアイ・ラウンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 15:56 UTC 版)
ウルグアイ・ラウンド(Uruguay Round、1986年 - 1994年)は、世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行われた多国間通商交渉。
- ^ "ウルグアイ・ラウンド". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年2月3日閲覧。
- ^ 『ウルグァイ ・ラウンド(UR)関連対策の検証』(レポート)農林水産省、2009年3月 。
- ^ 今村奈良臣「『TPP反対の大義』を読み、感じたこと、考えたこと、そして提案したいこと」『旧JC総研所長・理事長のコラム今村奈良臣先生の部屋』第168巻、日本協同組合連携機構(JCA)。
- 1 ウルグアイ・ラウンドとは
- 2 ウルグアイ・ラウンドの概要
- 3 概要
- 4 GATT/WTOの多角的貿易交渉
ウルグアイ・ラウンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 01:47 UTC 版)
「関税及び貿易に関する一般協定」の記事における「ウルグアイ・ラウンド」の解説
「ウルグアイ・ラウンド」も参照 1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたGATT閣僚会議において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された。 そのため、それまでの7回の多角的貿易交渉では、関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドでは、サービスや知的所有権など、それまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど、市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた。 その結果、ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりも遥かに長い8年もの歳月を要することとなった。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた。 これをきっかけにして、GATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる。例えばアメリカ合衆国は、1984年に大統領のファスト・トラック権限をGATTの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し、これに基づき、アメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える。 こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から、世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや、GATTが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである。 こうした流れは、暫定的なGATT体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカ合衆国の1974年米国通商法(英語版)第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった。 全ての交渉テーマについて、ようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた。GATTは一部改正され1994年のGATTとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた。 WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のGATTと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として、世界貿易機関が設立されたのである。
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