アグリッピナ・ワガノワとは? わかりやすく解説

アグリッピナ・ワガノワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/15 13:53 UTC 版)

エスメラルダを踊るワガノワ (1910年頃)

アグリッピナ・ヤコヴレヴナ・ワガノワ: Агриппи́на Я́ковлевна Вага́новаAgrippina Yakovlevna Vaganova1879年7月6日-1951年11月5日)は、ロシアバレリーナ、バレエ教師。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民芸術家

ロシアの名門バレエ学校「ワガノワ・バレエ・アカデミー」は卒業生でもある彼女の名にちなむ。

人物

1879年サンクトペテルブルクに生まれる。

帝室バレエ学校(現ワガノワ・バレエ・アカデミー)で学び、1897年卒業と同時にサンクトペテルブルクバレエ団(現マリインスキー・バレエ)にコール・ドとして入団。確かな技術、男性舞踊手並みの高さのある跳躍、安定した動きで、“ヴァリエーションの女王”の名をほしいままにしていた。しかし、当時圧倒的に注目を集めていたバレリーナ、アンナ・パヴロワマチルダ・クシェシンスカヤらの活躍もあり、現役時代は舞台に恵まれなかった。そして引退直前に、バレリーナに昇格した。

1916年に引退。1921年から母校のバレエ学校で教える。ここで自分なりに理解したものを教授していき、次第に信憑性を深めていき、マリナ・セミョーノワをはじめ、ガリーナ・ウラノワイリーナ・コルパコワナタリア・ドゥジンスカヤら、バレエ史に名を残すダンサーを次々と育て上げた。

1931年から1937年までキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)の芸術監督に就任。

1951年、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で死去。1957年からレニングラード・バレエ学校(旧称 帝室バレエ学校)は彼女の名を冠するようになった。

ワガノワ・メソッド

1934年に「クラシックバレエの基礎」を出版し、世界中にバレエの教授法を広めた。

「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで成熟した」と云われるバレエだが、ワガノワ・メソッドは三国の特色の折衷を取りながら、身体のあらゆる部分を意識的に使ってバランスを保ち、自然な流れでパ(ステップ)とパをつなぐことを基礎とした実践的な教授法だった。

数ある教え子のなかでも特にセミョーノワとウラノワはボリショイ・バレエ学校で、ドゥジンスカヤはワガノワ・アカデミーで、優れたバレエ教師として多くの著名ダンサーを送り出し、ワガノワ・メソッドの後継者となった。

外部リンク

著書

  • 「ワガノワのバレエ・レッスン」(1996年11月、新書館) ISBN 4403310079




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アグリッピナ・ワガノワ」の関連用語

アグリッピナ・ワガノワのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アグリッピナ・ワガノワのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアグリッピナ・ワガノワ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS