田北鎮周とは? わかりやすく解説

田北鎮周(たきた しげかね) ????~1578


田北鎮周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 07:23 UTC 版)

田北 鎮周(たきた しげかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。


  1. ^ 宗麟の姪女、生年は永禄9年(1566年)。洗礼名はマダレイナ。宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)と先夫・一条兼定の女・マダレイナ(ジュスタの連れ子として鎮忠の養女となる)とは別人。 西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次③宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族① 宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族③
  2. ^ 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。


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田北鎮周(たきた しげかね)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「田北鎮周(たきた しげかね)」の解説

通称刑部少輔大友家武将。かつて毛利家相手戦功挙げた大友家一の猛将で、耳川の戦いでも総大将の紹忍を押しのけて軍議牛耳っていた。高城包囲していた大友先手衆が敗れたことを受けて自身先鋒として島津軍への突撃宣言し家宝として火に焼べて兵を鼓舞した大友家大国運命として烏合の衆となりつつある事を危惧しており、自身を贄として家中同心を願う悲壮な決意固めている。翌日猛攻仕掛けて島津軍先手衆を討ち取るが、戦線伸び切ったところを島津兄弟指揮する島津本隊に突かれ乱戦の中で討死した。

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