銘文(めいぶん)
金石文
銘文
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「天平十一年八月十二日記 / 歳次己卯」とあるが、年月日の後に歳次(干支)を記す例は当代の記録に見えず、また「記」と一旦文を閉じた後にその歳次が現れる点も気に掛かり、この2行には字形の違いも見られるため、これは「記」まで刻んだ後に「歳次己卯」の4文字が追刻されたと見られる。そこでこの4文字を除くと今度は銘文全体が右に偏ったものとなり、字配りの点で予め銘文を決定していたというよりも、「天平十一年八月十二日記」と刻んだ後に追って刻まれた可能性があり、やや杜撰である。
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銘文
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鐘の表には、臨済宗の僧で琉球・相国寺(後述)の二世住持である渓隠安潜による漢文が刻まれ、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」(書き下し)という一節は、日本と明国との間にあって海洋貿易国家として栄えた琉球王国の気概を示すものとされている、これは現在沖縄においてこの梵鐘が「万国津梁の鐘」と称されるゆえんである。 また後半は仏教の興隆が謳われ、これは当時内乱が打ち続いていた尚泰久王の治世において、仏教による鎮護国家思想を表したものとされている。1457年に尚泰久は朝鮮から大蔵経を取り寄せており、仏恩に報じるためにこの梵鐘を鋳造、建立したとされる。大意は次のようである。 中国と日本から齎された諸々の文化により琉球が繁栄し、世の主が大位を天授され民生を涵養し(琉球の)大地は青々としている。三宝を盛んにし四恩に報いるため(この)梵鐘を鋳造し王殿に懸ける。王は国制を中国に倣って敷き、先王の教えに倣い武芸を奨励する。梵鐘の音は三界の衆生を救い、世の主の大位と長寿を祝う。 以下四言詩が続く。全文は以下の通り。 琉球国者南海勝地而鍾三韓之秀以大明為輔車以日域為唇齒在此二中間湧出之蓬莱島也以舟楫為万国之津梁異産至宝充満十方刹地靈人物遠扇和夏之仁風故吾王大世主庚寅慶生尚泰久茲承宝位於高天育蒼生於厚地為興隆三宝報酬四恩新鋳巨鐘以就本州中山国王殿前掛着之定憲章于三代之後戢文武于百王之前下済三界群生上祝万歳宝位辱命相国住持溪隠安潜叟求銘々曰須弥南畔 世界洪宏吾王出現 済苦衆生截流玉象 吼月華鯨泛溢四海 震梵音声覚長夜夢 輸感天誠堯風永扇 舜日益明戊寅六月十九日辛亥大工藤原国善住相国溪隠叟誌之
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銘文
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「テムズ・スクラマサクス」の記事における「銘文」の解説
刀身のフソルクの銘文は以下の通りである。 サクスでの並び順標準的なルーンUSC古英語名ローマ字音訳ザルツブルク・ウィーン写本の並び順1 ᚠ feoh f 1 2 ᚢ ur(英語版) u 2 3 ᚦ þorn þ 3 4 ᚩ ós(英語版) o 4 5 ᚱ rad(英語版) r 5 6 ᚳ cen(英語版) c 6 7 ᚷ gyfu(英語版) g 7 8 ᚹ wynn w 8 9 ᚻ hægl(英語版) h 9 10 ᚾ nyd(英語版) n 10 11 ᛁ is(英語版) i 11 12 ᛄ ger(英語版) j 12 13 ᛇ eoh(英語版) ɨ 13 14 ᛈ ᛈ(英語版) p 14 15 ᛉ eolh x 15 16 ᛋ sigel(英語版) ( ᚴ と記されている。下記参照) s 16 17 ᛏ Tiw(英語版) t 17 18 ᛒ beorc(英語版) b 18 19 ᛖ eh(英語版) e 19 20 ᛝ ing ŋ 22 21 ᛞ dæ d 23 22 ᛚ lagu(英語版) l 21 23 ᛗ mann m 20 24 ᛟ eþel(英語版) (と記されている。下記参照) œ 24 25 ᚪ ac(英語版) a 25 26 ᚫ æsc(英語版) æ 26 27 ᚣ ᚣ(英語版) y 28 28 ᛠ ear(英語版) ea 27 この銘文には、まれな特徴がいくつかある。まず第一に、ルーン文字の順番が、より古い24文字のルーン・アルファベットの伝統的な配列や、ザルツブルク・ウィーン写本(ドイツ語版)に残されたアングロ・サクソン・フソルクの28文字の配列とぴったり一致しない。最初の19番目までのルーン文字は順番通りであるが、続く4文字(20番目から23番目の ᛝᛞᛚᛗ )は、他の出典とは一致しない混乱した並び方をしている。最後の2つのルーン文字(27番目と28番目のᚣᛠ)は、ザルツブルク・ウィーン写本の並びと順番が入れ替わっていると考えられるが、これらは元の24文字のルーン文字に遅れて付け加えられたため、並び順が安定していなかったと考えられる。特に最後の文字 ᛠ は、アングロ・サクソンの写本では極めて稀である(この銘文の他ではドーバーで見つかった Jɨslheard ᛄᛇᛋᛚᚻᛠᚱᛞ という名前に現れる)。 第二に、16番目のルーン文字 (ᛋ)はとても小さく、後付けされたため縮められたように見える。 第三に、いくつかのルーン文字の書体が通常とは異なっている。 12番目の ᛄ は円の代わりに水平線が一本書かれているが、菱形や十字は他の銘文や写本の例によく見られるものである。 16番目の ᛋ は通常と異なるが、これはいくつかの碑文(例えば聖カスバート(英語版)の聖堂のもの)にも見られる。このルーン文字の書式は、アングロ・サクソン語の写字体に用いられたインシュラー体のS(英語版)と非常に似た形状をしている(両者とも垂直の軸線に水平もしくは右上がりの横線がある)ため、この文字から借用したと確信する研究者もいる。一方エリオットは、左に分岐する一画を整理した上に、文字を鏡写しにした、通常のルーン文字を進化させたものと見なしている。 21番目の ᛞ は、中央で交差する三角形ではなく、三角形を形成する2本の斜めの線が交わる形で通常とは異なる。これはおそらく異常な形であると考えられる。 24番目の ᛟ は通常の形では2本の斜め線の脚を持つ代わりに、1本の垂直線を持つ変わった形をしている。この形はルーン文字の碑文と、しばしば写本のテキスト中にも見られる。アデレード大学の元英語教授ラルフ・エリオット(英語版)は、標準的なルーン文字を簡略化して表したものであると示唆している。 27番目の ᚣ は中央部に垂直線ではなく十字を伴うもので通常と異なる形である。 これらの風変わりな点は、銘文をデザインした職人がルーンの綴り方をよく知らなかったことを示していると考えられる。しかし特異な書体のいくつかは、ルーン文字を線材で象嵌するのが困難なことに起因する間違いであるかもしれない。 ベアグノズの名前の銘文は以下の通りである。 名前の銘文には珍しい特徴は見られないが、名前の右上には文字のように見える奇妙なデザインが2つあり、これは誰にも説明出来ていない。
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銘文
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「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「銘文」の解説
詳細は「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」を参照 蓮弁形光背の裏面には造像の由来について記した銘文がある。銘文は14字14行で、四六駢儷体の格調高いものである。このように字数と行数を整えた例は中国の墓誌にみられる。文字は中国の5〜6世紀頃の書風を伝える。刻まれた文字の内面には鍍金が及んでいないとされるが、これについては写真映りをよくするために明治大正期に字の部分に詰め物をしたことの影響が指摘されている。銘文の原文と書き下し文を以下に示す(読み方には諸説ある)。 法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登淨土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乘斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造 (読み下しの例) 法興元丗一年(げんさんじゅういちねん)、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后〔間人皇女〕崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇〔太子〕、病に枕して弗悆(ふよ)〔「弗」の次の漢字は「余」の下に「心」〕。干食(かしわで)王后〔膳妃〕、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主〔間人皇女、太子、膳妃〕に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。 (〔 〕内は補注。) 読み下しについては、以下のようにさまざまな異説がある。 「十二月、鬼前太妃崩」の「鬼」を日付の意に解釈し、「十二月鬼、前太妃崩」とする。 「弗悆」を次の「干食」につなげて、「食に弗悆(こころよ)からず。王后、」とする。 「當に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、」を「釈像を造りて、尺寸の王身、此の願力を蒙り、」とする。 「遂には彼岸を共にし」を「共に彼岸を遂(と)げ」とする。 以上のように、一部の字句の読み方や解釈に異論もあるが、銘文の大意は以下のとおりである。 西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である。 この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした。藪田嘉一郎も1950年の論文で釈迦三尊の光背銘は疑わしいとした。しかし、福山は1961年の論文では釈迦三尊光背銘を指して「飛鳥金石文の首位にあるもの」と評しており、自説を実質的に撤回している。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した。東野治之は、木簡に書かれた文字で「皇」が「王」と同じ意味で使われる例の多いことから、「法皇」表記には問題がないとしている。 藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した。
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「長谷寺銅板法華説相図」の記事における「銘文」の解説
文字面の大きさは縦14.2cm、横42.4cm。その中に27行、各行12字(19行目のみ7字)が配置され、当初、全319字あったとされている。が、銘文の右側が斜めに欠損し、50字を失っている。ただし、銘文の述作にあたって用いられた典籍として次の2つの史料が分かっており、その内の15字を補うことができている。 玄奘三蔵訳『甚希有経』(じんけうきょう、649年) 道宣撰『広弘明集』巻16所収の「瑞石像銘」と「光宅寺刹下銘」
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「小臣艅犀尊」の記事における「銘文」の解説
小臣艅犀尊は、重要な歴史価値も具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代の干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名、商朝は建国より滅亡までずっとこの小臣という官職を設けていたものの、責任を負う業務はそれぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名を冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派、現在の山東省一帯に分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり、商代は全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文とその他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期の君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造が帝乙あるいは帝辛の時期であるはずである。 日本の中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代殷帝国』(みすず書房)に結実する研究の一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した。
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銘文
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小臣艅犀尊は、重要な歴史価値も具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代の干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名、商朝は建国より滅亡までずっとこの小臣という官職を設けていたものの、責任を負う業務はそれぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名を冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派、現在の山東省一帯に分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり、商代は全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文とその他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期の君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造が帝乙あるいは帝辛の時期であるはずである。 日本の中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代殷帝国』(みすず書房)に結実する研究の一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した。
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銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 21:11 UTC 版)
ブグト碑文の四面には銘文が刻まれており、そのうち3面はソグド文字/ソグド語で、残る一面はブラーフミー文字/サンスクリット語で書かれている。これによって当時の突厥可汗国の公用語がソグド語であり、テュルク語は公用語でなかったことが判明した。初め、モンゴルの学者によってこのソグド語銘文はウイグル文字/テュルク語とされたが(1968年)、のちにソ連のクリャシュトルヌィ、リフシツらによってソグド文字/ソグド語であることが明らかにされた(1971年)。
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