落胤
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落胤(らくいん)とは、父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)[1]、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。
- ^ 『大辞林 第三版』三省堂
- ^ 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『興福寺縁起』、『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』
- ^ 『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』
- ^ 『大日本史』氏族志、『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『伊勢物語』
- ^ 寺史 - 六波羅蜜寺では「第二皇子」とされる
- ^ 『今鏡』137段
- ^ 『平家物語』
- ^ 『古事談』
- ^ 『島津国史』、『島津氏正統系図』
- ^ 『大友記』
- ^ 『朝光公記』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 東坊城和長『和長卿記』明応3年8月1日(1494年8月31日)条
- ^ 『細川家記』
- ^ 『萩藩閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」
- ^ 『萩藩閥閲録』巻38「井上六郎右衛門」家譜
- ^ 『美濃国諸旧記』巻之2(p.33-64)
- ^ テレビ番組「決着!歴史ミステリー」にて採り上げられた([1])
- ^ テレビ番組「超歴史ミステリーロマン4 女たちの戦国」にて採り上げられた([2])
- ^ 『明良洪範』
- ^ 『耶蘇天誅記』
- ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったと記されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている(秋元茂陽 『徳川将軍家墓碑総覧』星雲社、2008年)
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 清水昇・川口素生『徳川一族 時代を創った華麗なる血族』(新紀元社、2008年)
- ^ 国宝・彦根城築城400年祭 列伝井伊家十四代 第6回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の壱~
- ^ a b 『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
- ^ 『後藤庄三郎由緒書』
- ^ 『三王外記』
- ^ 永倉新八『同志連名記』等に「藤堂和泉守落胤」との記載あり
- ^ a b 「日本」の本質を「皇后」から読み解く関川夏央、講談社『群像』
- ^ 工藤美代子 『母宮貞明皇后とその時代』2007年 中央公論新社
- ^ 「『明治天皇の御落胤』が初めて明かす」玉川信明編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である―御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年、42~55頁)
- ^ 『入江相政日記』第3巻、入江相政、朝日新聞社, 1990、p282
落胤
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能久親王の不慮の薨去後、その外妾だった申橋カネと前波栄がそれぞれ所生の芳之と正雄が親王の後胤だと名乗り出てきた。そこで宮内省が入念な調査を行ったところ、果たして両名とも確かに親王の五男と六男であり、親王も生前その事実を把握していたことが判明した。しかし親王はすでに鬼籍にあり、この両名を認知する旨を記した遺言書もなかったことから、彼らを法的には親王の子として認知することはできず、したがって皇族の一員として王となすこともできなかった。一般の臣民であれば父親の死後でもその子が原告として検察官を相手取るかたちで強制認知の形成を提起する民事訴訟に持ち込むこともできたが、皇室典範にはこうした事態を想定した条文はなく対応する手段を欠いたのである。それでも北白川宮家では他の庶子と同様に富子妃がこの両名を引き取って養育することにした。そこで平民の子供が宮家の一員として生活するという不都合を回避するため、翌明治30年(1897年)明治天皇は優諚によりまだ満8歳と満7歳のこの両名を特に華族に列して伯爵に叙すとともに、それぞれに新たに「二荒」と「上野」の家名を下賜した。当時は皇族の内規により、原則として宮家に生まれた王は、その宮家の継嗣となるか、あるいは皇女と結婚することで天皇の婿として新たに一宮家を創始することができない限り、成人に達した後に臣籍降下し華族に列して一家を起こすことになっていたが、この両名も王に準じるということで実質的にこの内規を前倒しにして適用したものと考えることができる。 なお二荒芳之は病弱で子をなさぬまま満21歳で卒去したが、生前からのたっての願いを容れてその後目には芳之の異母妹である拡子女王を富子妃の実弟にあたる伊達宗徳の九男・芳徳にめあわせ、このふたりを夫婦養子に迎えるかたちで二荒伯爵家を継がせているが、そこには芳之が幼い頃の自身を受け入れてくれた北白川宮家や嫡母として親身に子育てをしてくれた富子妃に対して最期までたいへん気を遣っていた様子が見て取れる。
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