しゅう‐きょく【終局】
終局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 13:45 UTC 版)
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関連項目
終局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:26 UTC 版)
「アウステルリッツの戦い」の記事における「終局」の解説
戦場の北側でも激戦が繰り広げられていた。ようやく配置位置に到着したリヒテンシュタイン公の重騎兵隊がケレルマン軽騎兵師団に攻撃を始めた。戦闘は当初フランス軍優勢であったが、ロシア兵の数が非常に多いと分かり、カファレリ (en) 師団の援護下に後退している。カファレリ師団がロシア軍の攻撃を食い止めたため、ミュラ元帥は2個胸甲騎兵師団(師団長はオートポール (en) とナンスティ (en) )を投入させ、ロシア騎兵の撃退に成功した。 混戦が激しくそして長く続いたが、最終的にフランス軍が打ち勝った。ランヌ元帥の第5軍団がバグラチオンの部隊に対して攻撃をし、熾烈な戦いの末にこの熟練したロシア軍司令官を戦場から後退させた。ランヌは追撃を求めたが、この地区の戦闘指揮を担当するミュラは反対した。 ナポレオンの焦点は未だ両軍の間で戦闘が続いている戦場南端のソコルニッツ村とテルニッツ村へと移された。サンティレール師団と第3軍団の一部による二方向からの効果的な攻撃によってソコルニッツ村の連合軍は蹴散らされ、この方面の連合軍二個縦隊の司令官キンマイヤー (en) 中将とランジュロン中将に早急な撤退を決意させた。この時、泥酔していた連合軍左翼司令官ブクスホーデン (en) 大将もまた逃げ出した。キンマイヤーとオライリー軽騎兵部隊が殿(しんがり)を務め、襲いかかる6個フランス騎兵連隊の内5個までを撃退する奮戦をした後に撤退した。 パニックが連合軍全体に広がり、持ち場を離れて潰走し始めた。有名かつ凄惨なエピソードはこの敗走に際して起こった。フランス軍に敗れウィーン方向へと逃れようとしたロシア兵が凍結したザッチャン池を渡っていた。フランス砲兵が彼らを砲撃すると氷が割れ、ロシア兵たちと大砲数十門が冷たい池に落ちた。犠牲者数は資料によって異なり、少ないもので100人程度であり、多いものでは1万人以上になっている。 『大陸軍戦闘詳報』はこの事件で2万人が溺死したと誇張して報告しており、ロシア皇帝はこの破滅的な大敗の言い訳としてこの見積もりを黙認した。溺れたロシア兵の多くが、勝者となったフランス兵によって救助されている。暫く後に公になった現地の地方判事の記録によると、この大惨事に関するナポレオンの記録は全くの創作ということになる。会戦の数日後、皇帝の命令により池の水が排水させられたが、池の底からは僅か2から3体の死体と150頭の馬の死体が発見されただけだった。 連合軍の死傷者は15,000人に上った。フランス軍の死傷者は8,233人である。加えて、連合軍は大砲180門と軍旗50本を失っている。この大勝利の報は前日まで財政破綻の危機に動揺していたパリに大きな歓喜と昂奮状態をもたらした。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに対し「私は二人の皇帝に率いられたオーストリア=ロシア軍を叩きのめした。私は少しばかり疲れた…あなたを抱きしめたい」と書き送っている。一方、皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いている。
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終局
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「ツァボの人食いライオン」の記事における「終局」の解説
人食いライオンの脅威が去ると、作業は順調に進捗した。ツァボ川の鉄橋工事は1899年2月に完成し、線路が敷設されて汽車も通るようになった。鉄橋が完成し仮橋脚を撤去してから2、3日後に猛烈な豪雨がツァボを襲ったが、トロッコ用の仮橋2つは流失したものの鉄橋はびくともしなかった。 資材不足で工事が休みになった日、パターソンはマヒナとムータ(でぶという意味)という名のパンジャブ人の労働者を連れてツァボの南西にある丘陵地帯に向かった。はっきりとした獣道をたどれば、ほとんど間違いなく目的の場所にたどり着くことがわかってきたので、パターソンはその道を少しずつ地図に書き込んでいた。 このときパターソンの一行は、サイのつけた獣道をたどって次第に森の奥深くまで入り込んでいた。渓谷沿いに歩いていると、サイやカバが通るトンネル状の場所を見つけてその先にあるものを確かめることにした。パターソンは水路の近くに「うす気味の悪いほら穴」の存在を認めた。そのほら穴はかなり奥行きがあるように見えたが、入り口や穴の中にたくさんの人骨があるのが認められた。パターソンの一行は、偶然人食いライオンの根城を発見したのだった。中にメスライオンか仔のライオンが潜んでいるかもしれないと思ったパターソンは銃を1、2発撃ちこんでみたが、穴からはコウモリの群れが出てきただけであった。 パターソンはツァボでの仕事を1899年3月に終え、同月のうちにケニア南部のマチャコス・ロードに赴任した。彼がイギリスに戻ったのは1899年の終わりごろのことで、彼を慕うキクユ族の人々400人余りがイギリスへの同行を願い出たため、説得するのに骨を折ったという。パターソンはマヒナを始めとした忠実な使用人や、長きにわたって苦楽を共にした労働者数名とともに海岸まで旅をした。一足先にインドへ戻る彼らに別れを告げた後、パターソンは翌日の船でイギリスへ旅立った。
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終局(しゅうきょく)
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「将棋用語一覧」の記事における「終局(しゅうきょく)」の解説
一局の将棋が終わること。決着がつきそうな際に「終局を迎える」と表現する。
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終局(終末論信仰)
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詳細は「ラグナロク」を参照 古き北欧における未来の展望は、冷たく荒涼としたものであった。同じく北欧神話においても、世界の終末像は不毛かつ悲観的である。それは、北欧の神々がユグドラシルの他の枝に住む者に打ち負かされる可能性があるということだけでなく、実際には彼らは敗北する運命にあり、このことを知りながら常に生きていたという点にも表れている。 信じられているところでは、最後に神々の敵側の軍が、神々と人間たちの兵士よりも数で上回り、また制覇してしまう。ロキと彼の巨大な子孫たちはその結束を打ち破る結果となり、ニヴルヘイムからやってくる死者が生きている者たちを襲撃する。見張りの神であるヘイムダルが角笛ギャラルホルンを吹くと共に神々が召喚される。こうして秩序の神族と混沌の巨人族の最終戦争ラグナロクが起こり、神々はその宿命としてこの戦争に敗北する。 これについて既に気づいている神々は、来たる日に向けて戦死者の魂エインヘリャルを集めるが、巨人族側に負け、神々と世界は破滅する。このように悲観的な中でも2つの希望があった。ラグナロクでは神々や世界の他に巨人族もまたすべて滅びるが、廃墟からより良き新しい世界が出現するのである。オーディンはフェンリルに飲み込まれ、トールはミズガルズオルム(ヨルムンガンド)を打ち倒すがその毒のために斃れることになる。剣を失っていたフレイはスルトに敗れ、テュールとガルム、ロキとヘイムダルがそれぞれ相討ちになる。スルトによって炎が放たれ、全世界は海中へと沈む。このように神々はラグナロクで敗北し殺されてしまうが、ヴィーザルのようにごく一部の神は生き残り、またラグナロク後の新世界ではバルドルとヘズのように蘇る者もいる。 ただし、ラグナロク後の展開は解釈や資料によって異なり、異版では新たな世界が生まれることなく世界が滅亡するというものもある。
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終局
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「オチャーコフ攻囲戦 (1788年)」の記事における「終局」の解説
疫病や寒さにより、両軍ともに状況は悪化していた。結局、ポチョムキンはスヴォーロフの強襲作戦を採用した。12月6日(グレゴリウス暦12月17日)、ロシア軍が夜襲をかけハサン・パシャの宮殿を占拠、オチャーコフの街を開城させた。ハサン・パシャを含む4,000人以上のトルコ兵が捕虜となったが、この後の掃討戦で市街守備隊約2万人が殺された。この作戦におけるロシア側の死者は956人、戦傷者は1,829人だった。n. ガヴリーラ・デルジャーヴィンはこの勝利を祝福する詩を、ジュゼッペ・サルティは聖歌を書いている。
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終局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 22:40 UTC 版)
本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入した。遂には秀頼の下で大坂城台所頭を務めていた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤に染まる大坂の空の様が見えたという。 なお、大坂城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。 7日申の刻(午後四時頃)に治長は家臣の米倉権右衛門を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀頼・淀殿の助命嘆願を行う。家康は秀忠に判断を任せたが、翌日8日に秀忠は秀頼らに切腹を命じて、秀頼らが籠もる山里丸にある焼け残りの蔵を包囲した井伊直孝勢が午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を放つことでこれを伝えた。これにより秀頼ら三十二人は自害をし、後に蔵内から火が挙がった。
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終局
「 終局」の例文・使い方・用例・文例
- 確定した終局判決に既判力が認められる。
- 人生の終局的な大きな目的は知識を獲得することではなくて行動することである。
- 最終局面に入る.
- 争議も終局に近づいた.
- 英国は終局の勝利を期しておった
- 自我の完成は人生終局の目的
- 終局の勝利を得る
- 終局の勝利はいずれに帰するか
- 終局を告げる、終局を見る
- 交渉は円満な終局を告げた
- 速かに事の終局を見たいものだ
- 事件はめでたく終局を告げた
- 裁判が終局を告げるまでは被告に面会を許さない
- 交渉が終局を告げるまではどこへも行けない
- 戦争は終局に近い
- 終局の決定
- 終局の判決
- 終局の勝利
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