空襲とは? わかりやすく解説

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くう‐しゅう〔‐シフ〕【空襲】

読み方:くうしゅう

[名](スル)航空機地上目標襲撃すること。「—警報

「空襲」に似た言葉

空襲

作者石川はつえ

収載図書を売る少年
出版社日本図刊行
刊行年月1994.4


空襲

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空襲(くうしゅう、: Airstrike / Air-raid)または空爆(くうばく)は、空中から目標に対して爆弾の投下や機銃掃射などを行うことである。


注釈

  1. ^ ただし、三菱F-2戦闘機が500ポンド爆弾を12個、もしくはクラスター爆弾4個を装備可能であるなど、自衛隊が爆撃能力を全く有していないわけではない。この場合の爆撃能力とは、先制攻撃目的でなく、あくまでも侵略を受けた際に敵上陸部隊を撃破することが目的である。

出典

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  2. ^ 三浦俊彦『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』二見書房21頁
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  22. ^ 荒井信一『空爆の歴史』岩波新書129頁
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「空襲」の続きの解説一覧

空襲

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第二次世界大戦下のルーマニア」の記事における「空襲」の解説

アントネスク政権時代通じてルーマニアナチス・ドイツ枢軸国軍石油穀物工業製品供給していた。また、ブカレストの北駅のような国内数多く鉄道駅が、東部戦線に向かう軍隊通過点として機能した。そのため、1943年までには、連合国軍の空襲さらされるようになった。最も知られているのは、1943年8月1日に、プロイェシュティ油田攻撃されタイダルウェーブ作戦である。ブカレスト1944年8月4日15日激し空爆を受け、連合国側転換後8月24日25日には、ドイツ空軍による空襲も行われた

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空襲

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八幡空襲」の記事における「空襲」の解説

1944年6月13日、第58爆撃航空団所属B-29インドから中国前進基地への移動開始し6月15日までに83機のB-29スーパーフォートレス成都周辺4つ飛行場到着した。だが中国到達することができずにインド引き返した機体少なくとも12機あり、その他墜落し搭乗員全員死亡した機もあった。B-29各々空襲用に500ポンド爆弾4発(2ショートトン(=1,800kg)分)を搭載した。このとき大将8名を含む多数参謀将校が、視察のためと称して成都基地訪れたが、空襲に参加することは許されなかった。その一方ジャーナリスト8名と報道写真家3名がB-29搭乗している。なお、当時アメリカ陸軍航空軍には直近の日本工業地帯撮影した写真がほとんどなく、八幡空襲ブリーフィング使用した地図写真10年上前の、1920年代後半から1930年代前半のものであった6月15日16時16分、B-29基地から離陸開始した。第58爆撃航空団のラベーヌ・サンダース准将作戦指揮をとった。出撃75機のうちR・Eヒューズ大尉指揮する1機(機体番号#42-6229)は離陸直後墜落し、更に4機が機械トラブル引き返しているが、残り70機は沖ノ島経由し一路九州八幡目指した。第58爆撃航空団4部隊は、それぞれ2機のB-29先行させ、その後ろを飛行する航法をとった。この航法は、先行機が他機の飛行目標となり、またその作りだす気流乗って燃料節約するためであり、イギリス空軍欧州戦線採用したのである爆撃隊は中国日本陸軍および陸軍航空軍によって察知された。「爆撃機九州北部向かっており真夜中に現地到着する」との報告日本陸軍19飛行団にも伝えられた。その後済州島レーダー基地監視所は現地時間23:31から00:30にかけて爆撃機捕捉した。空襲警報00:24発令されその3分後には飛行第4戦隊24機の「屠龍戦闘機北九州上空警戒のため離陸した。第59戦隊は、夜間作戦において第4戦隊夜間戦闘共同訓練をしておらず、運用する機体飛燕」には機械的問題があり、また出撃することで芦屋飛行場発見され逆に攻撃することも恐れられたため緊急発進見合わせた6月16日0038分、B-29八幡上空到達しおよそ2時間にも及ぶ爆撃開始した。だが市街地には既に灯火管制敷かれており、さらにこの晩は街全体覆い隠されていたため、爆撃目標視認できたのはたったの15であった残り32機はレーダー照準爆撃行った。なお、八幡以外では2機が老窯港に爆撃しており、また別の5機は臨機目標への爆撃行ったため、この空襲での爆弾総トン数107トンになる。また、最初の爆弾投下された後、作戦定時連絡ワシントンの第20司令部にしているが、このときアーノルド司令ロンドンにいた。爆撃隊が受けた対空砲火激しいものであったが、あまり正確ではなかった。また八幡周辺配備されていたサーチライトはほとんど役に立たなかった。第4戦隊戦闘機B-29を1機撃墜したが、そもそも空戦持ち込むこと自体が困難であり、迎撃はままならなかった。 空襲後中国基地への帰還飛行概ね良好であった。1機がエンジン不調のため中国河南省内郷飛行場着陸したところ日本軍機の機銃掃射を受け破壊された。他帰還中に2機が墜落し搭乗員全員同乗ニューズウィーク記者死亡している。この空襲でのアメリカ側の総損害B-29を7機損失、さらに6機を敵対空砲火で損傷し搭乗員57名とジャーナリスト1名が死亡している。なお空襲から数日の間、多数B-29燃料不足のため中国内に足止め余儀なくされ、ウォルフ准将が第312飛行隊から57,000リットル燃料借りることでようやくインドに戻ることができた。この数日間燃料がほとんど無く航空機出撃がほぼ不可能であり、日本軍報復攻撃に対して非常に脆弱な状態であったが、日本軍何の攻撃もしなかった。

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空襲

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バーリ空襲」の記事における「空襲」の解説

12月2日午後ドイツ空軍パイロット、ヴェルナー・ハーンはMe210バーリ上空から偵察した。その報告をもとにアルベルト・ケッセルリンクは空襲を命令したケッセルリンク彼の幕僚以前フォッジャ連合国軍飛行場目標にと考えていた。しかしドイツ空軍には、このような複数目標複合した大規模な目標攻撃できるだけの部隊がなかった。第2航空艦隊司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥バーリ代替案として提案した。港に壊滅的な損害与えればイギリス第8軍前進遅らせることができるとリヒトホーフェン考えていた。リヒトホーフェンは、第2航空艦隊出撃可能なユンカースJu-88 A4 爆撃機を空襲のために150集めることができるとケッセルリンク伝えたが、実際の空襲で出撃できたJu-88105機だった。 空襲に参加した多く飛行機イタリア飛行場から発進したのだが、リヒトホーフェン一部飛行機ユーゴスラビアから発進させ、連合国軍ユーゴスラビア発進地と思わせ、報復攻撃方向を誤らせたいと考えた。そこで、Ju-88パイロットはまず東のアドリア海向かいその後南下して西に向き変えて飛行するよう命令されることとなった連合国軍は、ドイツ軍攻撃するとすれば北方から、と判断していると思われたからである。 空襲は午後7時25分に、2、3機のドイツ軍機がバーリ上空3,000 m (10,000 ft) を旋回しながら連合国軍レーダー探知妨害するためチャフ散布して始まった。この時に照明弾投下されたが、港には照明点されていたので必要ではなかった。 空襲により、2隻の弾薬輸送船被弾して爆発起こし、この爆風11 km先の窓ガラスまで粉々になった。埠頭ガソリン荷役パイプライン切断され噴出した燃料引火したこのため、火のついた燃料が港の大部分広がり被害を受けなかった船舶巻き込んだ合計34,000トン上の物資積んだ貨物船28隻が撃沈または破壊され、ほかに3隻が撃沈の後に引き上げられた。さらに12隻が損傷受けた。港は2週間閉鎖され機能が完全に復旧したのは1944年2月だった。バーリ港にいた潜水艦はその頑丈な外殻ドイツ軍の空襲に耐え、全て損傷受けず残った

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空襲

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因島空襲」の記事における「空襲」の解説

空襲は1945年3月19日同年7月28日2度あった。ただ日立造船社史では、「工場施設損害受けたが、ほとんど操業影響はなかった」のみ書かれている。旧因島市資料では空襲があったこと以外は書かれていない被害者証言以外で現在発見されている主な資料以下のとおり。 『土生町警防団日誌』- 現在の因島土生町消防団日誌昭和二十年日誌 土生国民学校』 - 土生国民学校(のちの土生小学校現在の尾道市立因島南小学校教員残した日誌 テレンス・ケリー『By Hellship to Hiroshima』(『Living with Japanese』から改題) - イギリス人捕虜だった作家著作 捕虜トム・ジャクソンの日記 以下、わかっている範囲内列挙する

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鳥栖空襲」の記事における「空襲」の解説

8月11日10時30分、A-26攻撃機32機が鳥栖駅南西南東の2方向から飛来し鉄道施設笠井倉庫(現・鳥栖倉庫)、高射砲陣地(現・鳥栖スタジアム北東側)がある東町今泉町一部藤木町爆撃した10時40分には、B-25爆撃機48機が鳥栖駅西から飛来し日清製粉鳥栖工場がある曽根崎町爆撃した。さらに1120分までに、別の爆撃機本鳥栖町永吉町爆撃した

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空襲

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戦車」の記事における「空襲」の解説

陸戦主目的とする戦車にとって上空高速移動する航空機への対応は難しく第二次世界大戦中期から対地攻撃機対戦車攻撃にも導入され多く成果挙げた。特にダイブブレーキ備えた急降下爆撃機狙い定めやすく、戦車側は直撃受けないようにジグザグに動く、急停止急発進するなど回避行動取っていたが効果薄かった対策として大規模な戦車部隊には対空戦車随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊援護必要不可欠である。 戦車の上装甲正面装甲比べる薄く作られるため、正面装甲であれば充分にえられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通され可能性がある。ソ連では第二次世界大戦中期から23mm機関砲搭載したシュトゥルモヴィークIl-2東部戦線投入しドイツ軍戦車部隊に対して大きな戦果挙げたドイツでも大戦後期からJu 87GHs 129のような爆撃機攻撃機機関砲対戦車砲装備して対戦車攻撃機として投入しソ連軍戦車多数撃破している。現代攻撃機アメリカ空軍のA-10のように機関砲爆弾ロケットミサイル武装しており、戦車装甲車への攻撃主任務としている。 低速ながらも空中比較自由に動き回り一定の空域留まり続けることができる攻撃ヘリコプター固定翼機上の脅威であり、戦車砲射程外から機関砲空対地ミサイルなどで一方的に戦車撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプター射程入った場合煙幕を張って視界遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイル対空攻撃可能な銃砲、また専門防空車輌高射部隊との協調によって敵ヘリコプター接近阻止する必要がある近年自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリ射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜され可能性がある。ヘリ機動性射程距離勝り装甲貫徹力同等で、防御力運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置破壊されるだけで無力化されるこのためヘリ被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。 近年攻撃能力有する無人航空機徘徊型兵器新たな脅威になっている現代地上戦ではミサイルにより防空レーダー飛行場破壊して航空戦力減らし榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、制空権確保戦闘車両大規模展開させるうえでの前提条件である。 Su-25 Mi-24 バイラクタル TB2

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空襲(メテオライト)

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スマガ」の記事における「空襲(メテオライト)」の解説

不定期にゾディアックが空から襲ってくることをいう。ゾディアック正体も、襲ってくる理由不明である。カルデアが常にメテオライト警戒して観測しており、発見次第警報発令されエトワール撃退に向かうこととなる。

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空襲

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豊川海軍工廠」の記事における「空襲」の解説

工廠への空襲は1944年昭和19年11月1日偵察始まり1945年昭和20年)に入り小規模なものが度々あったが大規模空襲は無かった。しかし1945年昭和20年8月7日10時30分サイパンテニアングアムから飛来しB-29爆撃機124機の爆撃を受け、30分間500ポンド(250kg)爆弾3,256発(約800トン)が投下され工廠壊滅した。 この空襲により、およそ2,500名が犠牲となった詳細な犠牲者数文献により相違があり、『被爆四十周年 嗚呼豊川海軍工廠』によると2,544名、『豊川海軍工廠記録』によると一般人141名も犠牲となり合計2,670名、大島信雄調査によると2,818名という。豊川市編纂室の調べによると上記人数には8月7日以外の犠牲者含まれており、再度集計し直した結果合計2,667となっている。勤労動員されていた中学生女学生高等科生徒からも多数犠牲者が出、男193名、女259名、計452名にのぼった。この空襲の際に空襲警報総員待避命令出たかどうかが現在でも議論となっている。

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空襲

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「ドーリットル空襲」記事における「空襲」の解説

ドーリットル率いB-25爆撃機16機は東京府東京市神奈川県川崎市横須賀市愛知県名古屋市兵庫県神戸市などを爆撃した16機中15機が爆弾投下成功したが、照準ミス進路変更などにより当初軍事目標以外の所を爆撃した機も少なくなかった作戦参加機一覧機体番号シリアルナンバーニックネーム所属発艦時間機長目標実際攻撃脱出状況爆撃機掃射地上1番機 40-2344 34BS 08:15 ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル中佐隊長東京 東京市牛込区東京市淀橋区 - 衢州付近空中脱出 2番機 40-2292 37BS 08:20 トラヴィス・フーヴァー中尉Travis Hoover) 東京 東京市荒川区 - 寧波付近に不時着 3番機 40-2270 Whisky Pete 95BS 08:30 ロバート・マニング・グレイ中尉Robert Manning Gray東京 埼玉県川口市東京市王子区東京市葛飾区 埼玉県川口市東京市葛飾区 温州西方空中脱出 4番機 40-2282 95BS 08:32 エヴァレット・ウェイン・ホルストロム中尉Everett Wayne Holstrom) 東京 相模湾洋上投棄) - 上饒南方空中脱出 5番機 40-2283 95BS 08:35 デイヴィッド・M・ジョーンズ大尉 (David M. Jones) 東京 神奈川県川崎市 - 衢県南方空中脱出 6番機 40-2298 The Green Hornet 95BS 08:37 ディーン・エドワード・ホールマーク中尉Dean Edward Hallmark東京 神奈川県川崎市神奈川県横浜市 神奈川県横浜市 寧海付近に不時着水 7番機 40-2261 The Ruptured Duck 95BS 08:40 テッド・ウィリアム・ローソン中尉 (Ted William Lawson) 東京 神奈川県川崎市 - 寧海付近に不時着水 8番機 40-2242 95BS 08:47 エドワード・ジョセフ・ヨーク大尉Edward Joseph York東京 栃木県西那須野町新潟県新津町 - ウラジオストク北に着陸 9番機 40-2303 Whiring Dervish 34BS 08:52 ハロルド・フランシス・ワトソン中尉Harold Francis Watson Jr.東京 東京市品川区 - 撫州付近空中脱出 10番機 40-2250 89RS 08:55 リチャード・アウトコルト・ジョイス中尉Richard Outcalt Joyce東京 東京市品川区 - 衢州付近空中脱出 11番機 40-2249 Hari kari-er 34BS 09:00 チャールズ・ロス・グリーニング大尉Charles Ross Greening横浜 千葉県椿海村 - 衢州付近空中脱出 12番機 40-2278 Fickle Finger of Fate 37BS 09:01 ウィリアム・マーシュ・バウワー中尉 (William Marsh Bower) 横浜 神奈川県川崎市 - 衢州付近空中脱出 13番機 40-2247 37BS 09:02 エドガー・アール・マケルロイ中尉Edgar Earl McElroy) 横須賀 神奈川県横須賀市 神奈川県横須賀市 上饒北西空中脱出 14番機 40-2297 The Avenger 89RS 09:05 ジョン・アレン・ヒルガー少佐John Allen Hilger、副長名古屋 愛知県名古屋市 - 上饒南東空中脱出 15番機 40-2267 TNT 89RS 09:10 ドナルド・グレゴリー・スミス中尉Donald Gregory Smith神戸 兵庫県神戸市 - 寧海付近不時着水 16番機 40-2268 Bat Out of Hell 34BS 09:16 ウィリアム・グラヴァー・ファロウ中尉 (William Glover Farrow) 大阪名古屋 愛知県名古屋市 三重県伊曽島村三重県四日市市和歌山県名手町和歌山県粉河町南昌付近空中脱出 以下、特筆すべき機を記載する1番機ドーリットル隊長機)は茨城県から東京上空侵入し12:15に空襲を行った東京第一陸軍造兵廠目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人死傷者を出す。その結果早稲田中学校庭にいた4年生小島茂と他1名が死亡重傷者4名、軽傷15名、家屋50棟という被害出た1番機その後日本陸軍九七式戦闘機追尾振り切り、海軍厚木基地近く通過して海上出た。この時厚木基地配備されていた機体は、旧式九六式艦上攻撃機だった。中国大陸到達時の天候悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置設置されていないため夜間着陸不可能となり、ドーリットル落下傘脱出命じる。午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間飛行距離約3620km)、搭乗員自動操縦機体から脱出したドーリットル自身作戦失敗東京空襲成功したが、B-25輸送任務には失敗)だと判断していた。「軍法会議かけられる」と悲観しており、部下慰められたという。 4番機は、唯一爆弾海上捨てて離脱したB-25となった機長日本軍多数迎撃され、機銃故障して離脱した申告している。 6番機東京目標としたのち、中国大陸沿岸日本軍の占領区域不時着した爆撃手ダイター軍曹航空機関士フィッツマーリス伍長死亡し機長ホールマーク中尉副機長メダー少尉ネルソン航空士捕虜となった。 8番機は鹿島灘から東京へ侵入したが、機械不調のため燃料消費がはやかった。8番機は北上して栃木県西那須野駅新潟県阿賀野川橋梁付近爆撃しつつ、日本海抜けてウラジオストク向かった日本海越えて19:35ソ連本土不時着ウラジオストク近郊飛行場着陸とも)したが、すぐにソ連警察によって拘留されてしまう。乗員捕虜立場各地転々と移送されたのち、同盟国イギリスの影響圏であるイラク一部著作ではイラン) に脱出して1943年昭和18年5月29日にようやくアメリカに帰還した。 11番機は本土侵入後に水戸陸軍飛行学校航空隊機に迎撃された(後述)。そのため横浜侵入することができず、回避行動中に発見した建設中香取海飛行場爆撃し九十九里浜抜けて離脱した13番機は、房総半島南部横断して横須賀向かった13:00頃、記念艦三笠の上空から爆撃開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドック潜水母艦から空母へと改装中だった大鯨龍鳳)に命中する大鯨では火災発生した13番機は日本海軍中枢横須賀鎮守府)を爆撃することに成功し対空砲火の中を離脱した16番機は、ホーネット発艦時にプロペラ接触事故乗組員1名が左腕切断した当初大阪目標としていたが実際に爆撃したのは名古屋で、投下後は和歌山向かい、後に中国奥地で5名全員捕虜となった。この16番機は日本領土内の各地民間人対す機銃掃射行い、これが後の死刑判決繋がった。 空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストク向かった8番機を除く15機のB-25日本本土南岸洋上飛んで中国大陸向かった。この時、B-25遭遇した船舶に対して、それが民間船であろう機銃弾のある限り攻撃行った15:00室戸岬沖で漁船高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00足摺岬沖で漁船第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷した17:15鹿児島県口永良部島近海漁船昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た

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空襲

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ラエ・サラモアへの空襲」の記事における「空襲」の解説

3月10日早朝第11任務部隊と第17任務部隊予定地点到達し、「レキシントン」からはSBDドーントレス30機、TBDデヴァステイター13機、「F4Fワイルドキャット」8機の計51機が発進した。「ヨークタウン」からは「ドーントレス30機、「デヴァステイター12機、「ワイルドキャット10機の計52機が発進した総計103機のアメリカ軍攻撃隊がラエサラモア目指した。これとは別に、1機がオーエンスタンレー山脈気象観測のため発進した攻撃隊の装備爆弾が主であったが、「レキシントン攻撃隊の「デヴァステイター13機のみは魚雷搭載した攻撃目標は、「レキシントン攻撃隊がサラモアを、「ヨークタウン攻撃隊がラエそれぞれ攻撃する定められる機動部隊攻撃隊にくわえてアメリカ陸軍B-17重爆 18機もラエおよびサラモア空襲を目指した。攻撃隊は無事にオーエンスタンレー山脈越え一路ラエサラモア沖合にいる日本軍艦船向けて突進した。 そのころ、ラエサラモア沖に展開中のSR攻略部隊艦船依然として設営作業協力していた。数日来降っていたもあがり、早朝に「ロッキード」型が飛来して「天洋丸」に対して投弾してきたが、偵察であると判断された。ところが、7時50分にいたりSR攻略部隊の各艦船オーエンスタンレー山脈越えて飛来してきた「レキシントン」および「ヨークタウン」両攻撃隊の奇襲受けた。各艦船対空砲火撃ちあげたが貧弱であり、「聖川丸」も搭載水上偵察機3機で撃退しようとしたが、103対3機ではどうしようもなかった。 上陸部隊中でも比較大型であった津軽」は複数機の急降下爆撃を受け、直撃弾で舵が故障し人力操舵となった米軍機無線傍受によれば米軍攻撃隊は津軽戦艦誤認しており、津軽艦橋では「ありがた迷惑ですな、艦長」「戦艦津軽』か、悪くない」と冗談交わされていた。「津軽」の弾丸消費は、12.7センチ高角砲244発、25ミリ機銃約2,000発、7.7ミリ機銃1,000発だったという。 「横浜丸支援サラモアにあった夕張」も狙われ、銃爆撃加えて雷撃受けたが、雷撃に関しては腕が拙劣発射距離も遠く、まったく問題にならなかった。それでも「夕張」は機銃掃射応急弾薬筺や魚雷格納筺から火災発生し電信機被弾故障して送信不能となった。「夕張」が支援していた「横浜丸」は、4発の命中弾を受け8時30分沈没した以降9時15分第一波攻撃が終わるまで「ちゃいな丸」、「朝凪」や「夕凪」および「聖川丸」が被弾損傷した。9時35分にはB-17爆撃もあり、一連の攻撃10時35分までにはほぼ終わった攻撃後の12時、ようやく零戦4機がラエ上空到着したが、もはや「後の祭り」であった攻撃隊を収容した第11任務部隊と第17任務部隊は、攻撃隊員から再度攻撃要請されるブラウンはこれを受け入れず燃料補給のため第44任務部隊方角をさして避退ていった

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空襲

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礼号作戦」の記事における「空襲」の解説

現地1839分、日没迎えた。しかし当日天候晴れ月齢11夜になっても部隊上空から丸見えであった20時45分、まず朝霜爆撃受けた。これは命中しなかったが、これを皮切りに続々アメリカ軍機が各艦に攻撃始めた2101分、今度大淀爆撃受けた。250kg爆弾2発が命中した何故かこの爆弾には信管付いておらず、一発艦橋脇を貫通し海中突入し、もう一発は缶室直上まで甲板貫通して止まった次に清霜(第2駆逐隊司令白石長義大佐艦長梶本顗中佐)が狙われ、舷中部爆弾1発が命中、これが機関室直撃航行不能となるとともに浸水始まった。しかし他艦に救助に当たる余裕無く洋上停止し炎上する清霜取り残して礼号部隊進撃していった清霜その後30分ほどで沈没した。 このほか足柄中央部魚雷発射管付近)にB-25衝突し火災発生した。そのため、足柄搭載魚雷投棄せざるを得なかった。死傷者70名に上った

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空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 06:20 UTC 版)

北町 (練馬区)」の記事における「空襲」の解説

1944年昭和19年以後米空軍本土空襲に際して練馬区対象となり、1945年昭和20年4月1日と同3日から14日にかけて、大型爆撃機B29延べ150機の空襲で区内各地被害出した。軍倉庫火災起し、その余波中宿北町一丁目の西半分)を中心とした民家におよび、多数焼失家屋出した。なお敵撃墜目的でこの地区の南、丸久保(現平和台付近に高射砲陣地設けられていた。 1945年8月15日終戦となるや、軍倉庫物資の中で、戦時中献納した金属製用品などが野積み状況であったので、その発掘等が盛んに行われ金属拾い殺到した時期もあった。練馬区農地多く住宅密集地が少なかったことなどから、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかった。しかし、このことが却って多く引揚げ者始めとする人々招致に繋がることとなり、深刻な住宅問題生まれきっかけとなった

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空襲

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第二次世界大戦」の記事における「空襲」の解説

日中戦争時代より国民意識高めるために防空訓練が行われ、1942年アメリカ海軍艦載機最初の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものに過ぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民少なかった

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空襲

出典:『Wiktionary』 (2021/08/17 13:06 UTC 版)

名詞

(くうしゅう)

  1. 航空機地上めがけて爆弾などを落とすこと[1]

類義語


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