もう‐がっこう〔マウガクカウ〕【盲学校】
盲学校
盲学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:45 UTC 版)
1961年(昭和36年)4月、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。近所では口減らしではないかと噂が流れた。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。 当時オウム同様の閉鎖社会であった盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配、全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていたという。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」「撃ち殺すぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもあった。凶暴なので退学させろとの声も出ていた。金への執着が強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。 一方、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている。 成績は中程度であったが、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を目指すが当時は視覚障害者では医師免許が取れなかったこともあり諦め、高等部専攻科に進学する。 体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり、部活動は柔道に打ち込んだ。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。 毛沢東や田中角栄などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の自民党の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。菓子で買収もやっていた。後の真理党の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた。 1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。
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