求刑
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求刑(きゅうけい)とは、刑事裁判の手続のうち、検察官が事実や適用される法律についての意見を述べる論告に際し、検察官が相当と考える刑罰の適用を裁判所に求めること。
注釈
出典
- ^ 長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎)
- ^ 裁判員裁判:増えた「求刑超え」判決 裁判官だけの10倍 毎日新聞 2014年5月30日
- ^ 読売新聞茨城版 1947年6月1日「求刑より重い判決 一家四人殺し犯人に無期懲役」
- ^ 茨城県警察史編さん委員会編『茨城県警察史』(茨城県警察本部発行,1976) P918「緑岡村の一家四人殺人放火事件」。求刑については記載なし
- ^ 朝日新聞奈良版 1947年9月19日「凶悪強盗団に判決 主犯は死刑、その他に重刑」
- ^ 山陽新聞 1949年4月17日 3面「求刑15年が無期 岡山ミソ会社の放火事件の判決」
- ^ 中国新聞 1951年1月20日 3面「求刑十年が無期に 強盗事件に異例の判決」
- ^ 河北新報 1951年3月8日 2面「殺人と断定 石越村の愛人殺しに無期懲役」
- ^ 河北新報 1951年7月14日 4面「控訴審で懲役15年 石越村の恋人殺し」
- ^ 宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第二巻』(宮城県警察本部発行,1972) P432「石越村十八引の娘殺し事件」
- ^ 千葉新聞 1961年9月28日 1面「四名に死刑と無期 船橋ブローカー殺しに判決」
- ^ 朝日新聞千葉版 1949年12月2日「無期懲役の判決 船橋の傷害殺人事件」
- ^ 読売新聞神奈川版 1956年3月27日「求刑より重い無期 ガソリン殺人に判決」
- ^ 福島民報 1959年4月28日 夕刊3面「保原の女高生殺しに 無期懲役の判決」、同29日 朝刊5面「女高生殺し判決 各界の意見」
- ^ 福島民友 1959年4月28日 夕刊1面「女高生殺しに無期懲役 福島地裁 求刑より重い判決下る」、同29日 朝刊7面「反省の色ない少年 女高生殺し 福島地裁初の重い判決」
- ^ 福島県警察本部編『福島県犯罪史 第五巻』(福島県警察本部発行,1990) P504「伊達郡保原町、福島電鉄保原駅構内での殺人事件」
- ^ 下級裁判所刑事裁判例集 1巻4号P1126「少年法第五一条前段によって無期懲役を言い渡した事例」
- ^ 沖縄タイムス 1960年12月31日 朝刊7面「Sに無期懲役 樋川強殺事件 求刑上回る重い判決」
- ^ 静岡新聞 1964年3月28日 朝刊7面「Sと少年に無期刑 暴力団員の復しゅう殺人 “許せぬ行為”と判決」、下級裁判所刑事裁判例集 6巻3・4合併号P303「暴力団組織相互間でのピストルによる殺人及び埋没による死体遺棄等につき組織暴力の害悪を強調して、少年を含む被告人二名に無期懲役を言い渡した事例」、家庭裁判月報 16巻8号P145「成人と共謀のうえ、殺人等の事件を犯した暴力団配下の少年を無期懲役に付した事例」
- ^ 茨城新聞 1965年7月3日 7面「主犯の少年に無期 高校生の強盗殺人事件 二人は五-八年 求刑より重い判決」
- ^ 埼玉新聞 1969年2月1日 7面「蕨の母子殺傷事件に判決 求刑より重い無期 “善悪の判断力は正常”」
- ^ 長崎新聞 2006年2月18日 27面「対馬強盗殺人 2被告に無期懲役 長崎地裁判決 1被告は求刑上回る」
- ^ 長崎新聞 2006年10月20日 25面「対馬の強殺 二審も無期懲役 福岡高裁判決 求刑上回る」。控訴審判決文(裁判所サイト 裁判例情報「被告人が共犯者2名と共謀の上、金融業を営む被害者夫婦を殺害して金品を強取しようとしたが、金品の発見にいたらずその目的を遂げなかったものの、その際、被害者である妻を殺害した事案につき、懲役15年の求刑に対して無期懲役を言い渡した原審の判断を維持した事例」)
- ^ 長崎新聞 2007年6月28日 25面「対馬・金融業者宅妻殺害 2被告 無期確定へ 最高裁」
- ^ 宮崎日日新聞 1面ほか「女性殺害 A被告に無期 宮崎地裁判決 「悪質」求刑上回る」
- ^ 『朝日新聞』1946年11月15日大阪朝刊2面「求刑無期に判決死刑」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『秋田魁新報』1947年7月9日2面「殺人青年に死刑 上郷事件へ求刑より重い判決」(秋田魁新報社)
- ^ 『伊勢新聞』1949年12月29日2面「小俣の伯母殺しに死刑」(伊勢新聞社)
- ^ 『伊勢新聞』1950年6月13日3面「死刑覆し無期懲役 度会の伯父夫婦殺し控訴審」(伊勢新聞社)
- ^ 『河北新報』1947年3月20日夕刊1面「B、Sに死刑 苦竹放火殺人事件 求刑(無期)を覆す判決」(河北新報社)。日米行政協定締結後、米兵に初めて死刑判決が出されたケース。なお、米兵Bは米兵3人に対する強盗致死傷事件はアメリカの軍事裁判で無期禁錮刑判決(のち25年に減軽)を受けており、日本の裁判で裁かれたのは日本人女性に対する強殺放火事件のみ。愛人Sは全事件を日本の裁判で裁かれた。
- ^ 『河北新報』1958年3月12日夕刊1面「「B事件」に判決 控訴審公判 二人とも無期懲役 情状大きく認めらる」(河北新報社)
- ^ 『河北新報』1958年10月2日夕刊3面「B 無期懲役確定 仙台の放火殺人 最高裁、上告を棄却」(河北新報社)
- ^ 最高裁判所第一小法廷決定 1958年( 昭和33年)10月2日 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第128号1頁、昭和33年(あ)第735号、『強盗殺人、放火被告事件』。 - 最高裁判所裁判官:齋藤悠輔(裁判長)・下飯坂潤夫・高木常七
- ^ 『毎日新聞』1957年12月28日夕刊3面「二人に死刑判決 少女殺し(田無)と老女強殺(八王子)」(毎日新聞東京本社)。記事は縮刷版でも確認できるが、各紙の地方版(朝日新聞・毎日新聞の都下版、読売新聞の三多摩版)ではより詳細な記事が掲載されている。裁判長は談話の中で、上記仙台地裁の求刑超え死刑判決に触れている(毎日新聞 都下毎日 1957年12月29日)。被告人に無期懲役を求刑したのは日本初の女性検事・門上千恵子。
- ^ 『読売新聞』1958年7月29日三多摩読売「Cちゃん殺し死刑確定」
求刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:55 UTC 版)
「裁判所は検察官の求刑に拘束されない」とあるため、懲役刑などの場合は検察官の求刑よりも重い刑の判決を出すこともできるが、無期懲役以下の求刑に対して求刑超え死刑判決は1957年を最後に出ていない。
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求刑
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麻原は「こんなくだらん裁判はやらんでいい」「ここは裁判所なんかじゃない、劇場だ」「退廷させて死刑場につれていくのはOKだ」「射殺したければ射殺すればいい」「こんなばかな茶番劇のような裁判はやっても仕方ない」「こんなでたらめな裁判はやめろ、権利の侵害だ」「私はあなた方が裁くことはできない」と述べ、2002年2月25日の公判を最後に応答しなくなった。 2003年(平成15年)4月24日、検察側は論告求刑公判で、麻原被告人に死刑を求刑した。検察側は「わが国犯罪史上、最も凶悪な犯罪者と言うしかない」「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と論告した。検察側は「処罰感情は激烈である」として被害者遺族らの「八つ裂きに」「自分が殺してやりたい」「サリンによる死刑執行を望む」などといった発言を引用した。 同年10月30日から10月31日にかけて弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」とする旨の最終弁論を行い、結審した。東京地裁で開かれた公判回数は、257回に上り、初公判から第一審の判決まで、7年10カ月を要した。
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求刑
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「パソコン遠隔操作事件」の記事における「求刑」の解説
11月21日の公判で検察側は「卑劣で悪質かつ重大な犯罪」として、懲役10年を求刑した。
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求刑
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