政争とは? わかりやすく解説

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せい‐そう〔‐サウ〕【政争】

読み方:せいそう

政治上の主義・主張についての争いまた、政権奪い合い


政争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/19 16:50 UTC 版)

政争(せいそう、political strife)とは、政治における争いのことである。また、与野党で政権を奪い合い、政権を獲得又は選挙で勝利するために対決姿勢で相手を追い落とそうする行為。更には同じ党内における党内権力闘争などを含む政治的な抗争のことである[1][2]

概要

戦前の日本の一般庶民には政党政治は、とかく利権誘導や、野党が与党、与党が野党と反対党に対する追い落とし目的の政争ばかりを繰り返しているように見えていた。そのため、政党政治・財閥を含む政治への不満から1932年に五一五事件が起きた際に、犬養毅首相を殺害した海軍軍人の被告人たちに国民から数多くの減刑の嘆願書が寄せられる助命運動が起きた[3]

政争を繰り返す政党政治は、政治家への失望と憎悪へ繋がり、重臣、軍閥財閥、と共に、1936年の二・二六事件の原因となった[4]

1935年(昭和10年)に内閣による軍事への権限行使を排除したい軍部と、 岡田内閣立憲民政党)を追い落とそうとした野党 立憲政友会が、ともに天皇機関説を攻撃することで結びついたことで天皇機関説事件が起きている。「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が国務大臣の輔弼を受けて行使する」として、軍事に関する天皇大権への内閣の権限を根拠付けた天皇機関説という大日本帝国憲法の主流学説が不敬であるとして攻撃された。

脚注

  1. ^ 暮らしそっちのけの政争/民主代表選で志位委員長”. www.jcp.or.jp. 2022年7月25日閲覧。
  2. ^ 高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』p27,中公新書,1994年
  3. ^ 五・一五事件は2年前にすでに予告されていた!? | 渡部昇一 | テンミニッツTV” (jp). 10mtv.jp. 渡部昇一. 2022年7月25日閲覧。
  4. ^ 高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』中公新書、増補新版1994年

政争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「政争」の解説

桓温白石帰還すると、上疏して姑孰帰る事を求めた朝廷桓温丞相進めた上で建康に留まって社稷を守るよう詔を下したが、桓温はこれを固辞して鎮所に戻る事を求めた朝廷侍中王坦之派遣し桓温を相として朝廷迎え1万戸を加増する事を伝えたが、これも受けなかった。さらに詔が下り、袁真の反乱により西府物資不足していた事から、世子の桓熙に布3匹・米6万斛与えられ次子の桓済は給事中任じられた。 7月簡文帝重篤な病となると桓温後事託す旨を伝え、すぐに参内するよう命じた。詔は1夜の内に4度発せられたが、桓温謝安王坦之後事託すべきだと上奏し、入朝しなかった。この上奏が通る前に簡文帝崩御した。死の間際簡文帝桓温へ『家国の事は全て公に託すので摂政となり周公倣え』と遺詔残したが、王坦之はこれを『諸葛武侯諸葛亮)・王丞相王導)の故事のようにせよ』と書き換えた。桓温簡文帝自分禅譲するか、もしくは周公のように居摂求められる思っていたので、望み通りにならなかった事を知ると甚だ憤怒した。弟の桓沖に書を送って遺詔には我に武侯諸葛亮)、王公王導)の故事に依れとしか無かったわ」と伝えた簡文帝崩御した後、群臣桓温反発恐れて太子擁立行えず、桓温決定権委ねようとしたが、尚書僕射王彪之はこれに猛反対して太子司馬曜孝武帝)に位を継がせた。褚太后孝武帝幼く、また服喪の期間であったことから、桓温摂政任せる様提言したが、王彪之により阻止された。これより、王氏・謝氏が大権を握るようになったので、桓温日々不満を抱きながら過ごした孝武帝即位すると詔が下り内外事務政務全て桓温諮問した上で行うこととした。後に孝武帝謝安派遣すると、改め桓温入朝求めた同時に前部羽葆鼓吹・武賁60人を加える事を伝えたが、桓温はこれを固辞した寧康元年373年2月桓温入朝同意する山陵簡文帝陵墓高平陵)へ赴いた桓温入朝合わせて詔が下り桓温は常に無敬のままでいる事を許された。また、尚書謝安らには桓温を新亭に奉迎し、百官はみな道で拝するよう命じられた。当時地位人望があった者は、皆この命令戦慄して青ざめた建康では流言広まり桓温王氏・謝氏を誅殺し、晋朝転覆するだろうと言われた。桓温到来すると、妖賊の盧悚が宮殿の庭に侵入するという事件が起こった桓温はこれを理由尚書陸始を捕えるよう廷尉命じ、罪を咎めたうえで殺したしばらくして桓温は病を発して姑孰戻った建康滞在したのはわずか14日であった姑孰へと戻ると、さらに病状悪化し起き上がることが出来なくなった桓温死期が近いのを悟り朝廷根回しをして九錫加えるよう何度も催促したが、謝安王坦之桓温容態が悪い事を知ると、その実行を出来るだけ遅らせた7月九錫下賜する文が完成する前に桓温死去した享年62であった丞相追贈され、宣武と諡された。皇太后孝武帝は共に朝堂三日渡って臨した。そして、九命・袞冕の服・朝服1具・衣1襲・東園の秘器・銭200・布2千匹・臘500斤を下賜して、喪事に供するよう詔を下した喪礼については、全て太宰安平王司馬孚・漢大将軍霍光故事倣って行われ、九旒輅・黄屋左纛・轀輬車・挽歌2部・羽葆鼓吹・武賁班剣100人が下賜された。また、南郡公に7500戸を加増し、方三百里を進地とする優冊が出され、さらに銭5千万・絹2匹・布10万匹が下賜された。 元興2年403年11月、子の桓玄桓楚建てると、桓温追尊して宣武皇帝とし、廟号太祖とした。その墓は永崇陵と名付けられた。

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政争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 01:50 UTC 版)

広報委員会」の記事における「政争」の解説

クリール海外での活動を、CPI資金提供管理する下院議員賛意を得る方途として利用し下院議員知人短期間ながらもヨーロッパへ派遣。ただし事業計画中には下院議員から批判受けたものも少なくない。 またCPI新聞社との関係利用し、元新聞記者政治的盟友であるジョセフス・ダニエルズ海軍長官についての醜聞情報源調査その結果フランクリン・ルーズベルト海軍次官補佐していたルイス・ハウを突き止め大統領突き出す脅すこととなる。クリールウィルソン派として議会での批判ものともせずウィルソンクリール感情酌み取ったのである

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政争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)

名古屋電灯」の記事における「政争」の解説

関西電気名古屋電灯)が合併路線を採っていた1920年前後時期は、名古屋市会舞台会社巻き込む政争が発生していた。その発端名古屋電灯名古屋市の間に締結されていた報償契約であった福澤名古屋電灯参入するよりも前の1908年4月当時常務三浦恵民名古屋市との間に報償契約締結した。その主たる内容は、 会社決算期毎に報償金を市に納付する。その金額市内における事業にかかる純益金の4パーセント1917年より5パーセント改訂)。 電気料金値上げ他事業者の合併は市の承認を必要とする。 市は、市が所有もしくは管理する道路橋梁営造物・その他市有物件などにおいて会社電柱・線管を建設することを承認するその際使用料や特別税を徴収しない。また名古屋電灯名古屋電力以外の電気事業者にはこの権利認めない契約有効期間締結から25年間。満期後市は事業市営化する権利を得る。買収価格は、(1) 名古屋株式取引所における会社株式の3か年平均株価(2) 3か年利益・配当年額平均20倍したもの、この2つ平均した価格よる。 というものであった1920年になって名古屋電灯会社にとって不利なこの報償契約破棄ないし改訂目指し運動始めた。その契機4月道路法施行で、報償契約の効力疑義生じた主張していた。会社と市は折衝続けた意見一致をみず、1920年12月新し協定向けて手続き至急着手するとともにその間報償金納付合併承認については従来通り履行する、という旨の覚書き交わしたこのころ名古屋市会について見ると、議会多数派立憲政友会議員であった。この政友会系の議員には、名古屋電灯副社長下出民義をはじめ、前社長加藤重三郎法律顧問青山鉞四郎など同社関係者多くいたことから、「電政派」とも呼ばれていた(ただし監査役磯貝浩憲政会系)。1921年4月名古屋電灯関西水力電気との合併について報償契約に基づく承認を市に対して求めた6月になり合併承認の件が市会上程されることとなったが、その当日になって青山鉞四郎緊急動議によって佐藤孝三郎市長後任選挙差し替えられた。この結果政友会系の議員議長務め大喜多寅之助市長就任し青山後任議長となった名古屋電灯報償契約改訂破棄向けて運動であったため、電政派市長擁立大きな社会的反響呼んだ合併承認の件は9月市会審議され、そこで非電政派憲政会系)は、会社合併繰り返すのは買収価格吊上げ市営化を断念させるため策略であり、また先に木曽電気製鉄独立させたのは水利権報償契約範囲外に置くための措置であったなどと電政派および名古屋電灯激しく批判した。しかし結局多数占める電政派意見通って委員会付託となり、委員会結果報償契約関西水力電気継承させるなどの条件付での合併承認決まった。 翌10月市会議員選挙では電政派市政運営対す市民批判高まり、非電政派多く支持集めた。非電政派演説会参加した市民がその終了後名古屋電灯施設大喜多の邸宅政友会系の新愛知新聞社包囲襲撃するという事件も発生したという。この選挙の結果加藤重三郎落選するなど政友会系(電政派)の敗退憲政会系(非電政派)の勝利であった11月には大喜多の市長不信任案可決され翌年川崎卓吉交代した大喜多の退陣によって名古屋電灯関西電気)の報償契約改訂破棄運動失敗終わった

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政争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 03:02 UTC 版)

平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害」の記事における「政争」の解説

災害発生した8月20日安倍晋三首相夏休み中で山梨県別荘におり、災害受けて午前6時30分に別荘関係機関指示その後午前7時半ごろからゴルフ場入りプレー午前9時20分ごろゴルフ中断し帰京午前11時ごろ官邸到着し対応にあたった同日1940分ごろ山梨別荘戻り21日13時40分に再び帰京し15時20分ごろ官邸到着し対応に戻った官邸入ったあとに山梨戻った理由は「大雨の対応に身一つ来てしまったため」。この安倍首相初動対応について、各党の反応以下の通り民主党海江田万里代表「首相日頃から「国民の命を守る」と言っている。行動伴わない言葉無意味だ。もっとまじめにやっていただきたい」「こういうときだからこそ官邸公邸詰めて情報収集に当たるべきだ」 大畠章宏幹事長ゴルフは朝から中止すべきだった」「安倍政権慢心首相行動表れている」 日本共産党 : 幹部発言不明機関紙しんぶん赤旗』「国民の命と安全を軽視するゆるみきった姿勢あらわになりました社会民主党 : 又市征治幹事長行方不明者がいる状況別荘に戻るのはいかがなものかとんでもない判断だ」 日本維新の会維新の党橋下徹代表「組織しっかりと対応ができていれば問題はない」 片山虎之助国会議員団政調会長トップは慎まなければいけない」 みんなの党 : 水野賢一幹事長ゴルフをしていたことをもって条件反射的に『良い』『悪い』とは言わない」「対応が適切だったかは(国会での)検証明らかにすべきだ」 公明党 : 山口那津男代表「内閣としてしっかり対応している閣僚 : 古屋圭司防災担当相「(別荘戻った首相に関し連携取りながら対応している何の問題もない」 党代表団として真っ先現地入りしたのが民主党であり、災害2日後になる8月22日大畠幹事長代表として国会議員3人と地元選出地方議員による十数人の視察団編成し土砂災害発生した現場で消防隊員による説明を受けるなどしている。なおこの22日は、断続する降雨二次災害の危険をはらんだ当時現場において行方不明者生存率が高いとされる72時間の壁最終日であり、また二次災害起こらないよう応急処置あるいは復旧作業を行うなど現場作業していたときであったため、各党は混乱避けるため視察控えていた。『産経新聞8月23日報道によると、公明党地元強い要望があったとして23日視察社民党25日視察その他の党の視察その時点では未定であったという。安倍首相は「現場に迷惑をかけてはいけない」と河井克行議員広島県第3区)に答えたとされ、25日現地入りしている。

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政争

出典:『Wiktionary』 (2018/07/05 22:27 UTC 版)

名詞

せいそう

  1. 政治における争い政界争い

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