征夷大将軍とは? わかりやすく解説

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せいい‐たいしょうぐん〔‐タイシヤウグン〕【征×夷大将軍】

読み方:せいいたいしょうぐん

古代蝦夷(えぞ)鎮撫(ちんぶ)のための遠征軍指揮官延暦13年(794)大伴弟麻呂が任ぜられたのに始まる。征夷将軍

鎌倉時代以降幕府主宰者職名鎌倉幕府開いた源頼朝以後室町幕府足利(あしかが)氏、江戸幕府徳川氏まで引き継がれた。将軍


征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)

奈良時代末に東北地方蝦夷[えみし]を攻めるためにおくられ軍隊総司令官のことです。鎌倉時代時代以降は、武士による政権トップ称号になり、朝廷ちょうてい]から征夷大将軍に任命されました。一般的には将軍」というように省略しています


征夷大将軍

読み方:セイイタイショウグン(seiitaishougun)

(1)古代蝦夷征討目的派遣され将軍
(2)中世近世幕府棟梁


征夷大将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 16:38 UTC 版)

征夷大将軍せいいたいしょうぐん旧字体征夷大將軍)は、「征夷(=蝦夷征討する)大将軍」を指す。朝廷令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である[注釈 1]唐名大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。


注釈

  1. ^ 鎮守将軍と同格。
  2. ^ 源頼朝以降は例外が無い。
  3. ^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
  4. ^ 養老4年9月28日に陸奥按察使上毛野広人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。
  5. ^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
  6. ^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
  7. ^ 「征東大使」として、他に藤原継縄藤原小黒麻呂などの任命例もある。
  8. ^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
  9. ^ 建久3年(1192年)の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説である。一方で高橋富雄は「辞任ならば終官が最も重んじられ『前将軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大将』が使用されたのは、その方が権威があるからに過ぎない」として辞任否定説を取る[10]。また、受理されたか否かも別問題でこれも論争があり、石井良助は『尊卑分脈』の頼朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後、同5年10月10日条に「辞将軍」とあることから、頼朝が実際に将軍を辞任したとの説を取る。
  10. ^ 山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
  11. ^ 同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった。
  12. ^ 摂家将軍はそれに準ずる
  13. ^ 多聞院日記』天正12年(1584年)10月16日条にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大将軍を兼任するよう勧められたが断ったという記述による。
  14. ^ 官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。

出典

  1. ^ なお平安中期に藤原忠文が征東大将軍に任ぜられたが、これは平将門討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。
  2. ^ なお徳川三家、三卿の当主も同じく公卿(従二位〜従三位)に任じられた。
  3. ^ これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。
  4. ^ 将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。
  5. ^ 高橋典幸「鎌倉幕府の成立をめぐって」『文化交流研究 : 東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要』第26巻、東京大学文学部次世代人文学開発センター、2013年、31頁。 
  6. ^ 綱野善彦 1997, pp. 34–35.
  7. ^ 綱野善彦 1997, pp. 19–31.
  8. ^ 高橋富雄 1987, pp. 56–57.
  9. ^ 石井良助 『大化改新と鎌倉幕府の成立』創文社 1958年 p.87-91
  10. ^ 高橋富雄 1987, pp. 65–66.
  11. ^ 山本みなみ 2021, pp. 131–133.
  12. ^ 櫻井 2004.
  13. ^ a b 関口 2018, pp. 20–40, 下村周太郎「そもそも、源頼朝は征夷大将軍を望んでいなかった?」
  14. ^ 西田 2009[要ページ番号]
  15. ^ 川合 2009[要ページ番号]
  16. ^ 川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」『じっきょう地歴・公民科資料』76号、2013年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、277-278頁。 
  17. ^ 北村 2005, pp. 137–194.
  18. ^ 山本みなみ 2021, p. 133.
  19. ^ a b c d 竹ヶ原康弘「親王将軍期鎌倉幕府祭祀・祈禱に関する考察」『年報新人文学』第11巻、北海学園大学大学院文学研究科、2014年12月、148-175頁、CRID 1050001337523315968ISSN 1883-1524 
  20. ^ 山本幸司 2001, p. 169-171.
  21. ^ 竹ヶ原康弘「鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 : 摂家将軍頼経期を中心に」『年報新人文学』第10巻、北海学園大学大学院文学研究科、2013年12月、120-153頁、CRID 1050564287476724608ISSN 1883-1524 
  22. ^ a b c 山本幸司 2001, p. 277-278.
  23. ^ 近藤成一 2016, p. 56-57.
  24. ^ 近藤成一 2016, p. 58.
  25. ^ 湯浅吉美「『吾妻鏡』に見える天変記事を読む : 鎌倉武士は天変をどう受け止めたか」『郷土神奈川』第51号、2013年、39頁。 
  26. ^ 山本幸司 2001, p. 294-297.
  27. ^ 近藤成一 2016, p. 89-90.
  28. ^ 関口 2018, pp. 80–81, 鈴木由美「足利将軍家誕生は、「源氏の嫡流」の復活だったのか?」.
  29. ^ 今谷明 1990, pp. 110–168.
  30. ^ 今谷明 1990, pp. 198–203.
  31. ^ 今谷明 1990, pp. 203–204.
  32. ^ 今谷明 1993, pp. 174–175.
  33. ^ a b 木下 2014, pp. 359-361・363-364.
  34. ^ a b 堀新「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年。
  35. ^ 堀 2010, p. 89.
  36. ^ 鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社〈歴史新書y〉、2012年、154-155頁。



征夷大将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:09 UTC 版)

徳川秀忠」の記事における「征夷大将軍」の解説

慶長10年1605年正月、父・家康江戸発ち伏見城へ入る。2月秀忠関東東北甲信などの東国諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い達した3月21日秀忠伏見城へ入る。4月7日家康将軍職辞任後任秀忠推挙朝廷奏上し4月16日秀忠第2代将軍任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所呼ばれるようになり、秀忠徳川家当主となる。このとき、家康参内随行した板倉重昌叙任された。 徳川秀忠 征夷大将軍の辞令宣旨)「壬生家四巻日記大納󠄁言源朝󠄁臣秀忠左中辨󠄁原朝󠄁臣總光傳宣中納󠄁言󠄁原朝󠄁臣光豐宣奉 勅件人宜爲征夷大將軍者慶長十年四月十六日中務大輔兼󠄁右大史算博󠄁士小宿禰孝亮奉 (訓読文権大納言源朝臣秀忠徳川秀忠左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊従三位武家伝奏)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)慶長10年1605年4月16日 中務大輔右大史算博士宿禰孝亮(壬生孝亮従五位下)奉(うけたまは)る 将軍秀忠江戸城居住し駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠徳川家直轄領および譜代大名統治し家康外様大名との折衝担当した。なお、将軍襲職の際に源氏長者奨学院別当譲られなかったとする説がある。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。 将軍就任により武家の長となった秀忠自身軍事力増大を行う。秀忠将軍就任と同じ慶長10年親衛隊として書院番を、翌年小姓組創設して、自身直結する軍事力強化した慶長12年家康駿府城移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方秀忠麾下大番関東譜代大名交代警衛当たっており、秀忠の持城になった同年江戸到着した家康秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫与えている。 続いて慶長13年冬から翌年春に関東大名・旗本観閲行った慶長15年2月には将軍就任後は家康隠居した駿府赴く以外は概ね関東江戸に留まった秀忠は、三河国田原勢子大将土井利勝井伊直孝務め大規模な巻狩行っている。この時に供奉した旗本美麗極め要した費用計り知れないと言われた。またこの巻狩家臣2人喧嘩行い片方死亡し片方秀忠の命で処刑されたが、この喧嘩他者には伝播せず日頃法度により統率取れていたとある。この狩に動員され人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、源頼朝による富士の巻狩り同じく将軍である自身権威誇示軍事演習側面があった。なお狩り終えた後、江戸へ帰国時に駿府訪れた秀忠は、家康から自身亡くなった際には子の徳川義直徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国途上秀忠は涙を流したとある。 秀忠軍事力整備されたことを確認した家康は、続いて財政譲渡を行う。慶長16年よりこれまで駿府収めた上方年貢江戸収めるように変更し翌年には諸国にある天領の内、多く江戸へ年貢を納めるように変更された。ただし美濃国伊勢国、また近江国の内13万石駿府へ、また駿河国遠江国尾張国年貢は頼宣・義直収めるとされた。また慶長16年1月秀忠麾下老中奉行となった安藤重信に対して家康慶長5年以来勘定監査命じ慶長17年8月重信はこの監査完了したその後慶長18年には大久保長安事件始めとした代官吏僚横領発覚とその処罰多数行われた秀忠権力強化家臣団交代にも現れている。将軍就任翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政亡くなり、また関東総奉行青山忠成内藤清成家康狩場領民鳥網鳥籠設置許可したとして、家康怒り受けた秀忠両人解任同じく総奉行本多正信老中横滑りをして、関東総奉行の職は消滅した慶長19年には大久保忠隣改易され、正信除き旧来の家臣江戸政権主要な役職から去り秀忠近臣がその地位占めた慶長19年方広寺鐘銘事件では家康頻繁に近臣派遣して連絡密にしており、秀忠家康同様に豊臣家に対して怒り示している。その後勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して自分出陣するので家康関東留守を預かることを要請している。家康秀忠要請を容れず、自身がまず上洛して情勢確認し問題なければ処置をして帰国するが、もし豊臣方籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたに対して使者の利勝はその際秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、これが容れられている。 10月23日江戸出陣した秀忠行軍急ぎ家康より数度徐行求められる応じず、11月7日近江国永原滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍追い着くまで数日逗留している。その後城攻めでは総大将として強攻主張するも容れられず、また講話後の堀埋め立て現場指揮行った慶長20年1615年)のいわゆる夏の陣」では豊臣家重臣大野治房によって本陣脅かされた。豊臣家滅亡後家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定つとめた元和2年1616年1月21日夜に家康発病した際には、使者12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠2月1日江戸発して翌日駿府到着以後4月17日家康死去まで駿府滞在して父の死看取り22日葬られ久能山参拝後、24日江戸へ帰った。また家康後を追うように正信6月亡くなっている。

※この「征夷大将軍」の解説は、「徳川秀忠」の解説の一部です。
「征夷大将軍」を含む「徳川秀忠」の記事については、「徳川秀忠」の概要を参照ください。


征夷大将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「征夷大将軍」の解説

文治5年1189年11月3日朝廷より奥州征伐称える書状下り頼朝按察使への任官打診され、さらに勲功のあった御家人推挙促されるが、頼朝辞退した奥州では、大河兼任の乱勃発するが、足利義兼千葉胤正らに出陣命じ文治6年1190年3月大河兼任は討取られた。伊沢家景陸奥国留守職任命し在庁官人指揮させ、奥州への支配強化した建久元年1190年10月3日頼朝遂に上洛すべく鎌倉を発つ。平治の乱で父が討たれ尾張国野間父兄が留まった美濃国青墓などを経て11月7日に千余騎の御家人率いて入京し、かつて平清盛住んだ六波羅建てた新邸入った9日後白河法皇拝謁し長時間余人交えず会談した頼朝権大納言右近衛大将任じられたが、12月3日に両官を辞した任命され官職直ち辞任した背景としては、両官ともに京都朝廷における公事運営上重要な地位にあり、公事への参加義務有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻ることが困難になる判断したとみられている。11月9日の夜、頼朝九条兼実面会して政治的提携確認した頼朝在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、朝幕関係に新たな局面切り開いた義経と行家の捜索逮捕目的保持していた日本国追補使・総地頭地位は、より一般的な治安警察行使する恒久的なもの切り替わり翌年3月22日建久新制頼朝諸国守護が公式に認められた。12月14日頼朝京都去り29日鎌倉戻った建久2年1191年3月4日の夜、鎌倉大規模な火災見舞われ大蔵幕府その周辺御家人屋敷などが多数焼失した頼朝郊外甘縄にあった安達盛長邸宅逃れて無事であったが、鎌倉都市計画修正余儀なくされた。もっとも、この前日に鎌倉大火予言した者がいたなど『吾妻鏡』には不審火示唆するような記述見られ頼朝もしくはその周辺幕府首脳都市計画障害となる建物整地するために意図的に引き起こした放火である、とした説を唱える研究者もいる。 建久3年1192年3月後白河法皇崩御し同年7月12日後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記建久3年1192年7月9日条および12日条によると、頼朝望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つ候補提案され検討され結果平宗盛任官した惣官」や源義仲任官した征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして坂上田村麻呂任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。なお、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇阻まれたとする説については、近年疑問視されている。また、それまで精々従三位までの東方軍事司令官でしかなかったこの職に、あえて左大臣(元々は常設職として政権最高位であった)にも相当する正二位就いたことは、軍に基づく政権担当者という意味合い加わり以降幕末まで700年近く続く慣例創始された。 同年8月政子三男政子の子としては次男)の源実朝出産その3ヶ月前の5月大進局産んだ貞暁7歳になった時、政子憚って出家させるため京の仁和寺送られた。出発の日に頼朝密かに貞暁の元を訪れ太刀与えている。

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征夷大将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「征夷大将軍」の解説

慶長5年1601年12月19日文禄4年1595年)に豊臣秀次解任され以来空いたままになっていた関白九条兼孝家康奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白世襲止め旧来の五摂家関白職が戻る。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『洛中洛外図』の徳川時代伏見城 二条城唐門 関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年1601年3月23日家康大坂城西の丸出て伏見城にて政務執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏系図改姓行った慶長7年1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理唯一処分決まっていなかった常陸国水戸佐竹義宣出羽国久保田に減転封代わりに佐竹氏同じく源義光流れをくむ武田氏継承した五男・武田信吉水戸入れた。これによって確定した徳川氏領域一門譜代大名所領含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国越前国、西は近江国山城国大和国北伊勢桑名領をほぼ一円支配するものであった秋田氏里見氏などの小規模な外様大名支配地は除く)。 慶長8年1603年2月12日後陽成天皇参議勧修寺光豊勅使として伏見城派遣朝廷より六種八通の宣旨下り家康を征夷大将軍、右大臣源氏長者淳和奨学両院別当任命した同年3月12日伏見城から二条城移り3月21日衣冠束帯纏い行列整えて御所参内し将軍拝賀の礼を行い年頭祝賀述べた3月27日二条城勅使迎え重臣公家衆招いて将軍就任祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城能楽が行われ諸大名公家衆饗応した。

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征夷大将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「征夷大将軍」の解説

延暦16年延暦23年生涯2度の征夷大将軍に任命されている。2度目還任するものの、藤原緒嗣の議により「軍事造作」が停止されたため出征していないにもかかわらずその後も本来は臨時官職である征夷大将軍であり続けた思われる高橋崇は、征夷使大伴弟麻呂肩書として文献あらわれた順に征夷大使征東大使・征夷大将軍・征夷将軍など一定しておらず、対して田村麻呂は征夷大将軍で一貫して記されていることから「田村麻呂に征夷大将軍の初例を求めて誤りとはいえないであろう」としている。 『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記建久3年1192年7月9日条および12日条によると、「大将軍」を望んだ源頼朝に対して、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つ候補提案され検討され結果平宗盛任官した惣官」や源義仲任官した征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして田村麻呂任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。

※この「征夷大将軍」の解説は、「坂上田村麻呂」の解説の一部です。
「征夷大将軍」を含む「坂上田村麻呂」の記事については、「坂上田村麻呂」の概要を参照ください。


征夷大将軍(鎌倉殿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)

鎌倉幕府」の記事における「征夷大将軍(鎌倉殿)」の解説

鎌倉幕府の長。初代頼朝時代武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍3代途絶えると、朝廷から摂関家2代)および皇族4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。

※この「征夷大将軍(鎌倉殿)」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
「征夷大将軍(鎌倉殿)」を含む「鎌倉幕府」の記事については、「鎌倉幕府」の概要を参照ください。

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征夷大将軍

出典:『Wiktionary』 (2021/08/11 13:03 UTC 版)

名詞

(せいいたいしょうぐん)

  1. 令外官ひとつ奈良時代から平安時代蝦夷征伐つかわされ将軍
  2. 鎌倉時代以降幕府統括した武家棟梁のこと。

関連語

翻訳


「 征夷大将軍」の例文・使い方・用例・文例

  • 征夷大将軍
  • 征夷大将軍の政府
  • 征夷大将軍という人
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