宮邸
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宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、1904年(明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に威仁親王妃慰子が薨去したあとは東京市麹町区三年町(現・東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承する。 昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣官邸に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・港区高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。 高松宮邸となった高輪御殿には1931年(昭和6年)、宮内省内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観はチューダー様式、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、近江神宮に移築)を鎮座した。 幸い、太平洋戦争の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。 また本館は1949年(昭和24年)、貿易庁の迎賓施設「光輪閣」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に据え、連合国軍最高司令官総司令部の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内のプールを近隣の子供たちに開放した時期もあった。 光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣が老朽化によって1972年(昭和47年)に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。また和館は仁和寺に移築され、貴賓室「高松宮記念書院」として使用されている(非公開)。現在、宮邸敷地および邸宅は高輪皇族邸として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。 1995年(平成7年)に「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000万円近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。 2017年(平成29年)12月、2019年4月の明仁上皇の譲位後に設置される予定の仙洞御所改修(従来の東宮御所を、上皇の宮廷に転用)までの御假寓「仙洞仮御所」として使用されることが発表された。 職員住宅だった敷地の南東部分は喜久子妃の薨去後に売却され 住友不動産が2007年、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。
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