土器 (どき)
土器
土器
姓 | 読み方 |
---|---|
土器 | かわらけ |
土器 | すえど |
土器 | どき |
土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:38 UTC 版)
土器(どき、英語: earthenware)は、粘土に水を加え、こねて練り固めることによって成形し、焼き固めることで仕上げた容器である[1][2][注釈 1]。
注釈
- ^ 粘土を焼いて作られるものであっても、容器でないものは「土製品」「瓦器」と称される[1]。
- ^ この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ[4]。
- ^ なお、西洋では陶器と磁器の区別は日本や中国と異なり明確ではなく、英語のポーセリン(porcelain)は「白い」陶磁器を称し、中国・朝鮮・日本では磁器(瓷器)とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)と称される[11]。一方、ポーセリンには、軟質(「軟質磁器」)と硬質(「硬質磁器」)の区別を設ける。
- ^ 秋田県男鹿半島などでは、木製の箱に焼石を投げ込んで魚貝を煮て食べる石焼料理の土俗例が現在にも残っている[19]。
- ^ 小林達雄は、人間が満腹するほどの生米を食べるとすれば、おいしくないというだけではなく、たちまち下痢の症状を引き起こすであろうという例を引いて、これを説明している[20]。米の場合は、加熱によってβデンプンがαデンプンに変わり、劇的に消化しやすくなるのである[20]。
- ^ 小林達雄は、遊動的生活を基本とする旧石器時代人は、極端にいえば、毎晩欠かさずに寝るための巣づくりをするような行動が習性となっており、特定の場所に対するこだわりはなかったとしている[22]。西田正規は、『定住革命』(1986年)のなかで、人類の定住化は長い遊動的な生活の延長線上にあるものではなく、また、遊動的生活の体験の蓄積から結果として生じた新しい生活様式でもなく、むしろ人間の決断の意志を前提とするものであったことを強調している[21]。
- ^ 旧河川の川底とみなされる場所に棒杭を立てた遺構が、各地の縄文時代の遺跡から検出されている[20]。エリ漁は現代でも琵琶湖などでおこなわれている。
- ^ ドルニー・ヴェストニツェ遺跡ではマンモスの化石が出土しており、また、合葬墓がみつかったことでも著名な遺跡である。
- ^ 粘土は、乾燥によって湿分を失うときは、分子相互が密着するため、相当程度硬く締まり、この性質を利用して作られたものを粘土製品という[1]。日干しの土偶や古代メソポタミアの日干し煉瓦などが代表的な粘土製品であり、楔形文字の刻まれた粘土板も、粘土が本来持つ可塑性と湿分放散に伴う凝結性との双方を活用したものといえる[1]。
- ^ これを「目止め」という。米のとぎ汁や小麦粉を溶かした水を一煮立ちさせても同様の効果がある[38]。
- ^ 繊維土器は、焼成温度が低い場合には、繊維が完全に焼失してしまうことはなく、黒い炭化物となって胎土の内部に残ることが多く、それは土器の断面観察によって確かめられる[39]。
- ^ 日本では、ナデ整形は各種のナデが縄文草創期ですでにみられ、ケズリ整形・ミガキ整形は縄文早期以降にみられる。木目のギザギザが器面に細かい筋としてのこるハケ整形は、弥生時代より本格的に始まる。タタキは、大陸起源の整形法で弥生の早期に出現して後期以降に普及した[40]。
- ^ 彩色土器のうち、その彩色が焼成後にほどこされたものを塗彩土器、本焼ないし締焼の前になされたものを彩文土器として区別することがある[39]。
- ^ 中国の事例では、土器全体に占める彩文土器の比率は高くなく、そのほとんどは盛付用や貯蔵用であるところから特殊な容器として扱われていただろうと推測される[46]。これは、古代ギリシや古代ローマの絵付陶器が冠婚葬祭や宴会、奉納などに限られ、日常用には無文陶器や青銅容器を用いていた事実とも合致する[46]。
- ^ アスファルトは石器や骨角器の装着の際の接着剤としても用いられた[51]。
- ^ 最古の土器製塩は縄文後期後葉、関東地方の霞ケ浦周辺においてであり、やや遅れて東北地方の松島湾沿岸でも盛行する[56]。松島湾の土器製塩は関東で土器製塩が行われなくなって以降も行われ、弥生中期まで続いた[56]。弥生中期末、備讃瀬戸の児島地方で興った土器製塩は岡山県・香川県の本土地方さらには淡路島や近畿地方西部へと広範囲に広がった[56]。
- ^ 山内清男は1935年頃に縄文土器の編年の見通しを立て、1937年、全国的規模の「山内編年表」を発表した。たとえば、大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)といった型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた[64]。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである[65]。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要があり、加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである[64]。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている[64]。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼ぶ。こうした手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
- ^ 須恵器の胎土分析を精力的に行ってきた三辻利一は、分析可能な元素のなかでも、ルビジウムとストロンチウムの蛍光X線の波高に地域的偏差を生じやすいことを確認し、この方法を採用している[66]。
- ^ エブルル様式文化は、かつて「ケニア・カプサ文化」と呼ばれた時期があり、それはチュニジアからアルジェリア内陸部にかけての中石器時代から新石器時代にかけてのカプサ文化との石器の類似からつけられた名称であるが、現代では、「ケニア・カプサ文化」と称された文化と北アフリカの「カプサ文化」の間はまったく関係がないと考えられている[68]。
- ^ この標章は、後代の地方行政単位であるノモスの標章に類似するものがあり、この時期にノモスの成立もしくは萌芽があったことを示唆している[72]。
- ^ 幅6 - 7メートルに対して長さが20メートル程度という家屋であり、場合によっては40メートルを超す場合もあった。こうしたロングハウスは、いずれも長軸を北西—南東方向にもつという共通点がある[89]。
- ^ メソポタミアではウバイド期に併行し、インダス地域ではシェーリ・ハーン・タラカイ文化、アムリー文化、ハークラー文化が成立した[90]。
- ^ シンド地方・ゴーマル・、バンヌ・西部パンジャーブ州ではコート・ディジー文化、東部パンジャーブ地方ではソーティ・シースワール文化、また、ガンガー平原では「先ハラッパー文化」と称される文化が、それぞれ営まれた[90]。
- ^ 縄文草創期において九州地方南部は採集経済の早熟的な発展がみられ、文化創造の先頭に立っていたが、鬼界カルデラの爆発を受けて壊滅的な打撃を受け、以後、文化創造の中心は東北地方などの東日本に移った[52]。
- ^ 一方で、東北地方からも滋賀里式など西日本系の縄文晩期土器が出土しており、相互交流が考えられる[107]。
- ^ なお、縄文土器の中には後代に茶道具に転用されたものが存在するという[108]
- ^ かつてアメリカ大陸では、磨製石器が紀元前5000年 - 前4000年頃の「古期」に始まり、土器製作は農耕とともに紀元前4000年 - 前3000年頃の「形成期」に始まったとされてきた[122]。ただし、現在では時代名称と年代について見直しがなされている。詳細は「メソアメリカの編年」を参照。
- ^ この土器については、自刃する人を表しているのではないかという見方もある[135]。
- ^ 「アパート様式」は、スペイン建築と融合してプエブロ復活建築という様式を生み出した。
出典
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 14:33 UTC 版)
主に旧河川跡と土壙から、計40,774点の土器が出土した。土器の種類は土師器、須恵器、赤焼土器、両黒土器(土師器の内外面に炭素を付着させた黒色土器)の4つに分類される。器種は坏(土師器、須恵器、赤焼、両黒)が大部分で、赤焼土器の坏が全体の70パーセント強を占める。他に土師器の甕形土器、須恵器の甕形土器と壺形土器があるが、坏に比べると少量である。坏の胴や底に文字を墨書した墨書土器が452点あり、他に、炭化物や煤が付着した、灯明皿に転用されたもの、墨の受け皿として用いられたもの、漆塗のものなどが約200点ある。墨書の内容は、呪術的な文様を描いたもののほか、「木」「山田」「吉」「東」などの文字を書いたものがある。
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土器
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 19:18 UTC 版)
死者の遺体は、家屋の外に蔵骨器に納められるのが一般的であるが、石で囲んで家屋の床下に埋葬されることもあった。供物として埋納遺構(Cache)に用いられる土器は「宝のつぼ("Treasure Jar")」と呼ばれる土器や蓋付きの土器であって、床下に埋められ丸石やビーズが中に入っていることもあった。 もっとも一般的なタイロナの土器は調理用の赤い土器と家財道具としての黒色磨研土器である。黒色磨研土器は動物、人間、神、悪魔などの生き物の形をしており、さらにさまざまな形をしている。中には脚付きの壺やバスケットのような釣手のついた皿、蓋のついた円筒形の甕、鐙形の注口をもった壺(cf.鐙型注口土器)、動物をかたどった球根状の空洞の脚を持った四脚土器、そういった土器が二次埋葬の遺体が納められた蔵骨器とともに死者の副葬品として多量に埋葬された。また、翼の形をしてよく表面を磨いている石製ペンダントと鋳造された金のペンダントもそのほかの副葬品とともにみられる。またタイロナ文化には、メソアメリカに由来すると思われる多くの要素がみられる。儀礼に用いられる埋納遺構(Cache)、トラロックのように舌を突き出した存在を表現した土器、土偶やヘビやジャガーの両あごの中に人間の顔が表現されたオカリナ、そのほかメソアメリカに由来するものとして現在もタイロナの末裔として山地に生き残っているコギ族が9を神聖な数とし、4つの顔を持つ神、世界を4色に色分けすることなどの観念をみると強い影響があったと考えられる。それらは、形成期かそれより早い段階の核アメリカの文化的遺産に由来すると考えられるが、実際のところは、タイロナと同じ時期の後古典期のメソアメリカの影響と考えられる。ライヘル・ドルマトフは、そのようなメソアメリカのイデオロギーは、カリブ海を経由してコロンビアの北部に直接もたらされたと考えている。
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土器
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同貝塚からは土器が出土し、「茅山式土器」と命名された。植物繊維が多く含まれた土器であり、多くは雑な作りの深鉢形である。また、表面はアカガイなどの貝殻によってできていて、貝殻条痕が多く残る。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 07:06 UTC 版)
土器は第2層で213点の出土をみた。土器はすべて小破片で5センチ前後のものは大きい方に属し、普通は2〜3センチ大で、1センチ以下のものも多い。
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土器(かわらけ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 22:05 UTC 版)
中世には公家や高級武士の宴会ではこれに酒をそそいで飲み干した。一回切りの使用で廃棄され、携帯用の、使い捨ての盃のようなもの。近世以降、神社の神事で御神酒を供えたり、供食するために使用されるようになる。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 20:51 UTC 版)
土器(かわらけ)とは、神に供える神酒や塩・水を入れるための器で、素焼きの土器(どき)である。
※この「土器」の解説は、「神具」の解説の一部です。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 14:44 UTC 版)
ティワナク文化を特徴づける土器は、ケーロと呼ばれる口縁(飲み口)が外側へ広がったコップ状の土器やインセンサリオ、サウマドールなどと呼ばれる香炉がある。村の博物館には、このケーロや香炉が数多く展示されており、見応えがある。 ケーロは一般的に酸化焼成で(還元焼成と区別が付きにくいものもある)、オレンジ色のスリップに、茶色や、赤色、黒色をつかってラクダ科動物や猛禽類、階段状の幾何学文様などが描かれているものが多い。また、黒色磨研の還元焼成と思われるケーロも存在し、人の顔をかたどったり刻線で図像が描かれたりする。ただし、黒色スリップのケーロもある。ケーロの形態は、コップ状という共通点以外は、細かな変異があり、帯状の装飾を持つものや底部が極めて小さくなったものなど、高さが極端に長いものなどがある。最近の分析では、ケーロは大きく分けて、5分類できるという。 香炉は、一般的には酸化焼成で、動物をかたどったものが多く、コンドルと見られる猛禽類やピューマあるいはジャガーと見られるネコ科動物、リャマなどのラクダ科動物をかたどったものが多く、多彩色である。赤色やオレンジ色のスリップに、茶色や黒色、オレンジなどで彩色されている。 このほか、日常生活に利用された壺や甕など(無紋)、ミニチュアの土器などもおおく展示されている。
※この「土器」の解説は、「ティワナク」の解説の一部です。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:07 UTC 版)
神宮で用いられる土器(かわらけ)はすべて明和町蓑村にある神宮土器調製所で作られる。この地には高天原から埴土を移した言い伝えが残され、また良質の粘土が採れるため、皇大神宮御鎮座当時からここで土器が作られてきた。土器は使われる度に土へ還され、その都度新しいものが用いられる。作られる土器の種類、個数は以下のとおり。 土器年間生産一覧名称特徴、用途年間所要数六寸土器 直径19センチ、高さ2センチ程の浅皿型の器。10枚盛の御餅、鰒、鯛、伊勢海老、鱒などを盛り付ける場合に用いられる。 2,250 四寸土器 直径12センチ、高さ2センチ程の浅型の器。御飯、5枚盛の御餅、蠣、鯉、鮒、海藻、野菜、果物、御塩などを盛り付ける場合に用いられる。 20,200 三寸土器 直径9センチ、高さ1センチ程の浅皿型の器。御飯、御塩の他、御盃台と組み合わせて白酒、黒酒、醴酒、清酒などを入れるために用いられる。 19,500 御盃台 9,000 御箸台 箸を載せる 2,020 御水椀 御水を入れる 2,050 御酒壺 2,300 大土堝 祭儀の際に手水を湛える 12
※この「土器」の解説は、「神饌」の解説の一部です。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:32 UTC 版)
詳細は「土器」を参照 素焼きのやきもの。窯を使わず、粘土を野焼きの状態で700〜900°Cの温度で焼いたもの。釉薬(うわぐすり、またはゆうやく)はかけないが、彩色されているものを「土器」と呼ぶことがあり、その場合は、その彩色具を釉薬としないことを前提としている。歴史的には陶磁器の前身にあたる。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:14 UTC 版)
1954年5月3日の丸亀市編入以前はほぼ全域が「綾歌郡土器村」として存在した地区。旧名は鵜足郡津野郷土器村。 土器町西(どきちょうにし) 小字には高津、西村、川古などがある。 土器川西岸に位置する農村であったが、宅地化が進んでいる。 土器町東(どきちょうひがし) 土器川東岸からに青ノ山の間に位置する農村であったが、宅地化が進み南北を貫く土器線と呼ばれる道路沿いには新たに建った店舗が多い。青ノ山麓に位置する田潮八幡宮の秋祭りでは、氏子が神輿を担いで土器川に入り暴れる事で知られ、両岸と近くの蓬莱橋を見物人で埋める。また、浜街道沿いに丸亀平井美術館がある。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 08:13 UTC 版)
北陸系・東北系(天王山式系)・在地折衷系(八幡山式)の三系統の土器竪穴式住居・方形周溝墓、環濠から出土したので、同時に作成したと考えられる。このことから、東北会津や北陸地方中西部との関わりがあったことが推察される。
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土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 00:22 UTC 版)
新宮殿時代に至ると土器フェイズではMMIIIからLMIBに分類されるが、この時代にミノア文化は最盛期を迎える。MMIII期に入るとカマレス土器はあまり見られなくなり、その代わりに亀甲波状文が施されたものが現れはじめる。さらに土器の形状も様々なものが生まれ始め、後期青銅器時代に見られる土器で導入された技術が生まれ始めているのがMMIIIの特徴でもある。 LMIA期に入ると明色地に暗色(赤、茶)で水平方向に渦巻や草花を描くことが普及しはじめる。草花文はカマレス土器にも描かれることがあったが、LMIA期はそれとちがい柔軟で自然主義的な文様が多く、これはフレスコ画にも共通している。 LMIBに入ると新たに「宮殿伝統」として高度な芸術性を持った精製土器群が現れる。この土器には海洋文様式、草花文様式、抽象文様式、交互様式の4様式が見られる。
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土器
「 土器」の例文・使い方・用例・文例
- 彼はその土器の年代をおよそ1万年前のものと推定した
- 土器(製)のつぼ.
- この土器は縄文時代後期のものである.
- 土器が製作される工房
- うわぐすりがかかっていない、堅い赤褐色の土器
- エーゲ海のレムノス島にある、赤褐色粘土から作られる土器
- 古墳時代の陶質土器
- 円筒状の日本古代の土器
- 円筒状の古墳の上または周りに立てられた土器
- 押し型文をもつ土器
- 灰陶という,中国古代の陶質土器
- 火焔状の装飾を施した土器
- 素焼き土器
- 寺院跡から出土する土器
- (土器の模様として施された)櫛目文という文様絵
- 櫛目文の施された新石器時代の土器
- 中国先史時代の黒色の土器
- 彩色土器という,古代の土器
- 彩陶という土器
- 彩文土器という古代土器
土器と同じ種類の言葉
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