俳句
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俳句(はいく)は、句に季節感を与える季語を含み(有季)、五・七・五の十七音の型で作る(定型)事を基本とする日本の定型詩。ただし、季語を持たないもの(無季)や定型に従わないもの(自由律)も俳句として許容する場合もあり、何を俳句とみなすのかという定義は俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会など各団体で統一されていない[1][2]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 井㞍香代子「俳句の普及による価値観の変化」『京都産業大学論集』第47巻、京都産業大学、2014年、87-102頁、hdl:10965/1088、NAID 120005419437。
- ^ a b c d e f g エルジビエタ・ベアタ・コロナ「俳句の翻訳の際に起きる問題―ポーランド語への俳句の翻訳活動概観と、各翻訳の比較」『れにくさ : 現代文芸論研究室論集』第6号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 現代文芸論研究室、2016年、405-422頁、doi:10.15083/00079885、hdl:2261/00079885、NAID 120006901907。
- ^ 復本一郎『俳句と川柳』講談社学術文庫、2014年7月、14頁。
- ^ a b “連歌から俳諧へ” (PDF). 山口県文書館. 2023年2月10日閲覧。
- ^ a b 五十嵐譲介・大野鵠士・大畑健治・東明雅・二村文人・三浦隆編『連句 理解・鑑賞・実作』おうふう、1999年3月、44頁。
- ^ a b c d e f 楊秋香「俳句の鑑賞とその翻訳」『中部大学人文学部論集』第24巻、中部大学人文学部、2010年、43-54頁、NAID 120006518563。
- ^ a b 藤田真一「俳諧時間景情論 : 蕪村発句の構想」『國文學』第103巻、関西大学、2019年3月1日、237-264頁、hdl:10112/16739、NAID 120006602818。
- ^ a b c d 稲賀敬二、竹盛天雄、森野繁夫監修『新版初訂 新訂総合国語便覧』第一学習社 2009年1月10日
- ^ お~いお茶新俳句大賞とは 伊藤園
- ^ “『プレバト!!』夏井いつき先生が「俳句ブーム」を作るまで”. Smart FLASH (2018年8月30日). 2019年8月29日閲覧。
- ^ “『去来抄』(故実)”. 伊藤洋. 2018年6月25日閲覧。
- ^ 秋元 (1971)、137頁
- ^ a b c 復本一郎『俳句と川柳』講談社学術文庫、2014年7月、237-255頁。
- ^ 管宗次『朝鮮通信使による日本語韻文史料―発句、和歌などの短冊色紙をめぐって―』
- ^ 李元植『朝鮮通信使の研究』
- ^ Haiku in the Netherlands and Flanders by Max Verhart, in the German Haiku Society website
- ^ 朝日日本歴史人物事典『ドゥーフ』 - コトバンク
- ^ 井尻香代子「五・七・五 ラテンの風に舞う◇アルゼンチンに渡った日本伝統の調べを追って◇」『日本経済新聞』朝刊2019年7月15日(文化面)2019年8月13日閲覧。
- ^ “英語俳句のルールがよく分からない件”. エキサイトニュース. (2012年6月3日) 2012年6月3日閲覧。
- ^ William J. Higginsonの著書 "Haiku World" (ISBN 978-4770020901)ならびに、"The Haiku Seasons" (ISBN 978-4770016294)
- ^ wikisource:Frog Poem参照。
俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:35 UTC 版)
俳人としても有名で、万木(ばんぼく)の俳号で多くの俳句を残した。そのうちの一部は句碑になっている。没後の1966年に『大野万木句集』が出された。
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俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 08:08 UTC 版)
姉が嫁ぎ先の家である川越村(現在の三重郡川越町高松地区)の光倫寺の僧侶で、義兄にあたる横瀬善賢の影響から、彫刻家として、『観音像』、『自面』、『聖徳太子』、『朝妻船』などの芸術作品を制作した。もう一人の姉の嫁いだ家の川越村(現在の三重郡川越町南福崎地区)の法雲寺僧侶家では「肉付面」を作る芸術家だった。紡績会社の社員で構成している、芸術的な影響がある日本南画院「南画会」に所属して、亡き母の実家である吉川家で俳句作りをした。四日市港と富洲原を舞台に海岸の悲喜悲しみを詠った佐矩の冬の雨の一部に、佐貞の母方の従兄弟の吉川夏晶と佐貞が共作した佐貞の追悼集『志のぶ草』が1940年(昭和15年)10月に出版された。亡母を追慕して吉川家で遊ぶのが好きだったが、代表作で「かいつむり」に発表した作品は、以下の文章である。 「白樺をぬけて雪野の大日向」 「雷鳥の行方は吹雪光る峰」 「水辺の横なぐり屋根光る」 「浴びたる壁に干し柿」 「味噌」 「牛草」 この代表作白樺を主宰した梶島一藻から推薦や評価を受けて、以後自身の日記や書簡の内容を句にした。「志のぶ草」は平田家や平田一族の追想と追悼と弔辞があり、佐貞の日中戦争の陣中の記録や書簡である。
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俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:04 UTC 版)
代表的な句(制作年順) 刻々と手術は進む深雪かな あたためよ越後の酒もわろからず 学問の静かに雪の降るは好き 東京帝国大学の学生時代から俳句に通じ、東大俳句会にも参加している。 新潟大学医学部構内にヒポクラテスの木が植樹された際、「やがて大夏木になれと植ゑらるる」の碑文を揮毫している。 新潟大学旭町キャンパスには「学問の静かに雪の降るは好き」が刻まれた句碑がある。この句碑は1992年に同氏の生誕百年に伴う偲ぶ集いの賛同者により建立されたもので、書体は1968年に中田氏が茂野録良(第9代新潟大学学長)の教授就任に伴い贈呈した掛軸を複製したものである。 1958年に句集「刈上」を出版した。これ以来自身の俳号を「みづほ」から「穭翁」とした。(穭とは稲の刈上後に伸びる芽のこと。) 新潟医科大学には一時期、高野素十(与巳)法医学教授、及川周(仙石)衛生学教授、濱口一郎(今夜)内科学教授を含む4人のホトトギス派の俳人が在職していた(括弧内は俳号)。1929年に俳誌『まはぎ』が創刊され、みづほは雑詠の選を担当した。俳誌の命名は高浜虚子。なお、まはぎは1975年終刊(通算533号)し、1977年に後継誌として『雪』が刊行された(発行人:渡辺信一、選者:村松紅花)。
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俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 17:13 UTC 版)
平田紡績の家業を拡張して、軌道に乗った昭和時代初期に、平田は「号鶴声」を名乗って俳句作りを再開した。俳句雑誌の「かいつむり」に投稿した。平田紡績家の茶室で度々複数回に渡り俳句会を開催した。「鶴声」・「湖舟」を名乗って俳句・短歌を作り、俳歴・歌歴があり、堪能だった。しかし、自身の文化人としての経歴は、生前の平田紡績社長などの経営者時代と四日市市長などの政治家時代には黙して語らなかった。また俳句雑誌(かいつむり)に投稿したり、平田家所有の茶室で俳句会を開いた。 1938年(昭和13年)11月に日中戦争に参戦していた実弟・平田佐貞が中国湖北省黄白城付近で戦死した。1940年(昭和15年)に佐貞の夏晶編になる追悼集(志のぶ草)を出版する。発行者の平田自身も「冬の雨」11句・「木枯」18首以外に・句入り追想文の「行雲流水」などの優秀作を載せて俳句・短歌両道の達人である事を示した。 太平洋戦争下の1942年(昭和17年)末に、実業家及び俳人として人望がある平田は、三重県大政翼賛会俳句協会会長の川喜田久太夫より副会長に委託された。「かいつむり」の知人・友人の野田別天楼・武定巨口や著名俳人をはじめ、梶島一藻・杉本幽鳥・藤井鬼白など「かいつむり」に哀悼句を寄せた仲間の依頼であり、敗戦後は経営者や政治家としての任務の合間を縫って、かつての親類・友人と小規模俳句会を開催したりした。 1965年(昭和40年)11月天ヵ須賀2丁目の山口誓子の旧居の一隅に、九鬼紋十郎(元衆議院議員)ら有志によって、誓子句碑「かの雪信濃の国の遠さもて」が建碑の除幕された。除幕式があり祝辞を述べた。式典の参加したこと自体が感激無量であった。山口誓子夫妻をはじめ他の列席者にも印象深い式典であった。文人市長であったが、自身の俳歴や歌歴は語らなかった。 旧制第2中学校(後の富田中学校・現在の三重県立四日市高等学校)に入学した当時、国語漢文教師に山脇か吉がいた。山脇は校友会の「会誌」の盛んに俳句を寄稿して、その後論考「和歌の文法的解釈」を連載して、教師・生徒の師弟間の短詩型文学熱が恩師山脇によって活発化した。平田の同級生には、宇佐美美石花菜(本名と利三)・川喜田三郎・千葉胤一・平田笑乃舎(本名重則、その後の平田彩雲)・水谷益清や文学的感性豊富な青年が多かった。3年生時代には、盛んに「会誌」文宛欄に投稿して、普段から常に上位競争をした。富田中学校第9回卒業生で従兄の吉川夏晶(本名吉川重武)も影響を受けて盛んに俳句作りをした。
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俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 01:22 UTC 版)
「松岡氏 (北勢四十八家)」の記事における「俳人」の解説
大正9年生まれの三重県警察の上野警察署長(昭和50年まで伊賀警察署長の警察官上級職。令和初期に100歳の三重県警察の長老であった。本名は松岡忠夫)で竹永村の産業組合出身の俳人の松岡悠風がいる。三重県俳句協会を設立して平成時代に俳句協会の会長となり俳句集の『郁子』『春の月』などの作品で積極的に俳句活動をする。
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「 俳人」の例文・使い方・用例・文例
- 俳人一茶の作品の特色は親の愛情にめぐまれなかった家庭環境に根ざしているといわれている.
- 俳人としての経歴
- 松尾芭蕉の弟子の俳人という立場
- 松尾芭蕉の弟子の俳人が形成する流派
- 主に俳人によって描かれる絵
- 俳人が本名のほかに俳句の作者として用いる名前
- 非常にすぐれた俳人
- 俳人としての名声
- 八徳という,俳人や画家が着た衣服
- 美濃派に属する俳人
- スピーチの中でケネディ氏は,日本の俳人,松尾芭(ば)蕉(しょう)によって書かれ,日本文学者のドナルド・キーン氏によって訳された「奥の細道」の一節を引用した。
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