高津川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/28 09:57 UTC 版)
高津川 | |
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水系 | 一級水系 高津川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 81 km |
平均流量 |
51.8 m³/s (高角観測所 2000年) |
流域面積 | 1,090 km² |
水源 | 島根県吉賀町 |
水源の標高 | 960 m |
河口・合流先 | 益田港(島根県) |
流域 | 日本・島根県 |
地理
鹿足郡吉賀町田野原に源を発し、鹿足郡津和野町日原、益田市を経由して日本海に注ぐ。
一級河川で唯一、支流を含めてダムが一切無い。規模の大きい河川ながら上中流域に大きな人口密集地が無く、日本有数の清流として中上流域では毎年鮎釣りが盛んである。毎年6月に吉賀町で「水源祭り」が、8月第1土曜日に益田市で「水郷祭」が行われる。
日本唯一の「放し鵜飼」としてカワウを使う漁があったが平成になってする人がいなくなった。
この川で捕れる鮎の恩恵を流域の地域は強く受けてきた。例えば焼き鮎(乾燥アユ)を出汁に用いた雑煮は石見風雑煮として知られるが、飲食店・旅館の観光資源としての価値のみならず、流域の世帯で家庭料理としても受け継がれている。
名前
由来は不明であるが、歴史は非常に古い名前である。『万葉集』の柿本人麻呂の歌に詠まれた「石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか」の「高角山」(たかつのやま)に関連があると思われる[1][2]。
歴史
戦国大名の毛利元就も家臣の益田藤兼から「高津川の干鮎」を献上品として貰っている。(当時は益田川と高津川は下流で合流していた)
1530年には匹見川の水域について吉見頼興と益田尹兼との間で協定が結ばれている。当時から高津川は大河として水産資源が豊富だったと思われる。
江戸時代にはアユを争って向横田と横田の漁師が殴りあいの喧嘩をし危うく津和野藩が仲裁に入る逸話が残されている。河口の西に津和野藩の塩田があったとされる[3][4]。
毎年5月第3週の日曜日は、全一斉河川掃除が早朝5時30分から行われる。
2006年(平成18年)2月に、河川法に定められ河川整備の百年の計となる「河川整備基本方針」が策定され、国土交通省等により鋭意改修が続けられている
2022年9月、台風14号の影響によって吉賀町付近で越水による氾濫が発生した。田畑等浸水面積は3.4ha、住宅への浸水被害はなかった。
伝説
田野原の一本杉に出雲から逃げてきたヤマタノオロチの魂が宿り、水が沸いて高津川となる。
地元・有綱には4mを越す大蛇が地元の戦国武将・長嶺氏によって退治された逸話や日原の下瀬頼豊が川に潜った大蛇を追い払う逸話が残る。
- ^ “高津川水系の流域及び河川の概要 (案)”. 国土交通省 河川局 (平成17-11-25). 2019年9月7日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “高津(たかつ)とは” (日本語). コトバンク. 2019年9月7日閲覧。
- ^ 六十余州名所図会 石見 高津山汐浜 - 海の描かれた浮世絵 東京情報大学
- ^ 日本地誌略図(高津山汐浜) - 国文学研究資料館
- ^ “高角橋 (PDF)”. 中国建設弘済会. 2018年6月12日閲覧。
- ^ 高角橋 - 土木学会選奨土木遺産
- ^ “清流高津川の景観を彩る 飯田吊橋補修完了!!”. 益田市. 2018年6月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g “FR32:川を渡る橋・島根県 (PDF)”. 中日本建設コンサルタント株式会社. p. 3. 2018年6月12日閲覧。
- ^ 益田市安富町 - googlemapストリートビュー
- ^ 益田市神田町 - googlemapストリートビュー
- ^ 益田市神田町 - googlemapストリートビュー
- ^ 益田市神田町 - googlemapストリートビュー
- ^ 津和野町添谷 - googlemapストリートビュー
- ^ 津和野町富田 - googlemapストリートビュー
固有名詞の分類
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