駿河国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/10 23:52 UTC 版)
駿河国 | |
---|---|
■-駿河国 ■-東海道 | |
別称 | 駿州(すんしゅう) |
所属 | 東海道 |
相当領域 | 静岡県中部・北東部(大井川以東) |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 7郡59郷 |
国内主要施設 | |
駿河国府 | 静岡県静岡市 |
駿河国分寺 | (推定)静岡県静岡市 |
駿河国分尼寺 | (未詳) |
一宮 | 富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市) |
領域
- 駿東郡小山町・長泉町・清水町
- 御殿場市
- 裾野市
- 沼津市の大部分(内浦重寺以南を除く)
- 田方郡函南町の一部(日守)
- 富士市
- 富士宮市
- 静岡市
- 焼津市の大部分(下小杉・上小杉以南を除く[1])
- 藤枝市
- 島田市の東部(大井川以東)
- 榛原郡川根本町の東部(大井川以東)
沿革
古代
7世紀に朝廷が珠流河国造(現在の静岡県東部)と廬原国造(現在の静岡県中部)の領域を合併して駿河国とした。廬原臣足(おみたり)の子・廬原大蓋(おおがさ)が国造に任命され、孫の首麻呂は神護景雲3年(769年)、駿河国の新国造となった。『旧事本紀』の「国造本紀」に静岡県内の国造として6国造が書かれている。素賀国造・遠淡海国造・珠流河国造・廬原国造・久努国造・伊豆国造の六国造。古墳群の分布の検討から素賀は原野谷川・逆川流域、遠淡海を磐田原台地西南部、珠流河を富士・愛鷹山麓、廬原を清水平野、久努を太田川流域、伊豆を伊豆半島のそれぞれの地域に国造領域を比定している。(『静岡県史』通史編1)[2]
※この時点では伊豆半島と伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
駿河は当初、須流加(『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたといわれている。富士川の流れが急峻であることに由来するというものである。
宝賀寿男は、富士川の流域は庵原郡、富士郡であり、語源となった駿河郡駿河郷は現在の沼津市大岡付近にある。この川は黄瀬川のことを指すと主張している[3]。
西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった[4]。
680年(天武天皇9年)に東部の2郡を分離して伊豆国を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市大岡付近)にあった国府が安倍郡に移った。
1096年(永長元年)には、永長地震が発生。当時の関白、藤原師通の日記『後二条師通記』に、駿河国から報告として神社仏閣、百姓の家々四百戸余りが津波により流出したとの記述が残されている[5]。
中世・近世
1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開き、畿内の朝廷と東国の幕府二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ東海道の要衝。また、鎌倉時代には、円爾が安倍川流域で緑茶栽培を広めた。
室町時代には今川氏の地盤となる。義元の時代には、駿府(静岡市)には、戦乱を逃れた京の都の公家や文化人が転入し「東(国)の都」、あるいは「東(国)の京」、と呼ばれる繁盛を見せた。
義元が桶狭間の戦いで戦死すると、武田信玄や徳川家康の統治下に置かれた。駿府の今川館は、家康の時代に駿府城として改修された。1590年に家康が駿府から江戸に移ると、中村一氏が入った。
江戸時代初期には、江戸幕府を開いた家康が、大御所として再び駿府で過ごした。江戸時代には、直轄地である駿府の西の守りとして田中藩が、東の守りとして小島藩が置かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿と金谷宿は、川越で盛えた。
近代以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(850村・251,420石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 駿東郡(177村・52,530石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、田中藩、相模小田原藩、相模荻野山中藩、三河西尾藩
- 富士郡(162村・51,333石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、相模小田原藩、相模荻野山中藩、三河西尾藩
- 庵原郡(87村・22,229石余) - 幕府領、旗本領、小島藩
- 有渡郡(105村・37,551石余) - 幕府領、旗本領、小島藩、美濃岩村藩
- 安倍郡(142村・21,167石余) - 幕府領、旗本領、小島藩
- 志太郡(141村・54,470石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、田中藩、遠江横須賀藩、遠江掛川藩、美濃岩村藩
- 益津郡(36村・12,136石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、田中藩、美濃岩村藩
- 1868年(慶応4年)
- 1868年(明治元年)
- 1869年(明治2年)8月7日 - 府中藩が静岡藩に改称。
- 1871年(明治4年)7月14日 - 廃藩置県により静岡県の管轄となる。
国内の施設
国府
『和名類聚抄』では国府の所在地は安倍郡とある。ただし『拾芥抄』では、安倍郡・豊田郡の両方に「府」と記載がある。
静岡市の中心部と考えられるが、正確な位置は不明である。静岡県立静岡高等学校が所在する長谷(はせ)を「ちょうや」と読み替え、庁屋と解する推定があったが、古くは長谷を初瀬と書いていたことがわかり、根拠が失われた。瓦・畿内産土師器・輸入陶磁器の出土により、駿府城東南地区をあてる説があるが、決め手となる遺跡遺物は見つかっていない[6]。中世に駿府と呼ばれ、静岡市葵区と駿河区に当たるが、正確な位置は明らかでない。
国分寺・国分尼寺
- 駿河国分寺跡
創建時の位置は不詳。静岡市駿河区大谷の片山廃寺跡(国の史跡、北緯34度57分51.23秒 東経138度25分35.84秒 / 北緯34.9642306度 東経138.4266222度)が有力候補地とされる[7]。塔跡が未発見であったこともあり、片山廃寺の国分寺説を否定する意見も挙げられているが、平成21年(2009年)の調査で塔跡と推定される版築が見つかり、国分寺の可能性を高めている[8]。片山廃寺を否定する説では、静岡市葵区長谷町付近や駿府城内東北部を候補に挙げる[7]。
国分寺の法燈は、静岡市葵区長谷町の龍頭山国分寺(北緯34度59分3.74秒 東経138度22分51.20秒 / 北緯34.9843722度 東経138.3808889度)が伝承する(詳しくは「駿河国分寺」参照)。 - 駿河国分尼寺跡
創建時の位置は不詳。国分尼寺の法燈は、静岡市葵区沓谷の正覚山菩提樹院(北緯34度59分37.89秒 東経138度24分48.94秒 / 北緯34.9938583度 東経138.4135944度)が伝承する[9](詳しくは「駿河国分寺#駿河国分尼寺」参照)。
神社
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[10]。
- 総社:神部神社 (静岡市葵区宮ヶ崎町、北緯34度59分1.07秒 東経138度22分31.25秒 / 北緯34.9836306度 東経138.3753472度) - 静岡浅間神社を構成する1社。
- 一宮:富士山本宮浅間大社 (富士宮市大宮町、北緯35度13分38.66秒 東経138度36分36.01秒 / 北緯35.2274056度 東経138.6100028度)
- 二宮:豊積神社 (静岡市清水区由比町屋原、北緯35度6分18.88秒 東経138度33分29.84秒 / 北緯35.1052444度 東経138.5582889度)
- 三宮:御穂神社 (静岡市清水区三保、北緯35度0分0.40秒 東経138度31分15.16秒 / 北緯35.0001111度 東経138.5208778度)
守護所
国府周辺にあったと考えられるが、確認されていない。
安国寺利生塔
- ^ 下小杉・上小杉以南も1879年(明治12年)に駿河国に編入。
- ^ 荒木敏夫「静岡の夜明けと律令体制の成立」 本多隆成・荒木敏夫・杉橋隆夫・山本義彦『静岡県の歴史』山川出版社 1998年 27ページ
- ^ 宝賀寿男「沼津の高尾山古墳の保存問題」『古樹紀之房間』2015年
- ^ 『静岡県史』通史編1(原始・古代編)481-484頁。
- ^ 安田政彦『災害復興の日本史』p16 吉川弘文館 2013年2月1日発行 全国書誌番号:22196456
- ^ 『静岡県史』通史編1(原始・古代編)508頁。
- ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、p. 153。
- ^ 『ふちゅ~る No. 21(平成23年度 静岡市文化財年報)』 静岡市教育委員会、2013年、p. 31。
- ^ 『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』 平凡社、2000年、「菩提樹院跡」項。
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 150-153。
- ^ 中国新聞社「発祥と駿河丸時代」 『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- ^ “吉川氏発祥の旧跡”. 発祥の地コレクション. 2014年6月29日閲覧。
- 駿河国のページへのリンク