雫石町 雫石町の概要

雫石町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/10 00:42 UTC 版)

しずくいしちょう
雫石町
Koiwai-farm.jpg
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 岩手県
岩手郡
団体コード 03301-4
面積 608.82 km²
総人口 17,107
推計人口、2015年2月1日)
人口密度 28.1人/km²
隣接自治体 盛岡市花巻市八幡平市滝沢市
紫波郡矢巾町紫波町
和賀郡西和賀町
秋田県仙北市
町の木
町の花
町の鳥 ウグイス
雫石町役場
所在地 020-0595
岩手県岩手郡雫石町千刈田5番地1
北緯39度41分46.7秒東経140度58分32.8秒
Shizukuishi town hall.JPG
外部リンク 雫石町ホームページ

雫石町位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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地理

雫石スキー場から見た岩手山と鞍掛山

気候

  • 最高気温極値(1976年11月-)35.8℃(1978年8月2日)
  • 最低気温極値(1976年11月-)-20.6℃(2001年1月14日)

気象

雫石地方気象台(1981-2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 0.8
(33.4)
1.7
(35.1)
5.6
(42.1)
13.5
(56.3)
19.1
(66.4)
23.0
(73.4)
25.9
(78.6)
27.7
(81.9)
23.2
(73.8)
17.1
(62.8)
10.0
(50)
3.7
(38.7)
14.3
(57.7)
日平均気温 °C (°F) −2.9
(26.8)
−2.3
(27.9)
1.1
(34)
7.7
(45.9)
13.3
(55.9)
17.8
(64)
21.3
(70.3)
22.6
(72.7)
17.9
(64.2)
11.2
(52.2)
5.0
(41)
0.1
(32.2)
9.4
(48.9)
平均最低気温 °C (°F) −7.3
(18.9)
−6.9
(19.6)
−3.4
(25.9)
1.9
(35.4)
7.5
(45.5)
13.2
(55.8)
17.4
(63.3)
18.5
(65.3)
13.4
(56.1)
5.9
(42.6)
0.4
(32.7)
−3.6
(25.5)
4.8
(40.6)
最低気温記録 °C (°F) −20.6
(−5.1)
−20.3
(−4.5)
−15.7
(3.7)
−9.6
(14.7)
−1.5
(29.3)
3.6
(38.5)
7.6
(45.7)
8.7
(47.7)
1.4
(34.5)
−4.4
(24.1)
−10.4
(13.3)
−18.2
(−0.8)
−20.6
(−5.1)
出典: 気象庁[1]

歴史

沿革

氷河期石器が発見されるなど、その歴史は古い。町内各地の遺跡から先史時代にはすでに人々が定着していた形跡がある。大和朝廷の勢力が雫石地域に至り開拓の手が伸びたのは、延暦20年(801年)の坂上田村麻呂の頃であった。

滴石地域一帯に住む鬼の長(先住民の酋長)、大武丸(おおたけまる)を雫石の西根地域の中野村に兵を集めて田村麻呂がこれを攻め滅ぼした、と「巌鷲山縁記」に記載がある。中央が藤原氏の専制で地方政治の統制がゆるみ、安倍氏などの辺境在住勢力が台頭するにいたる。

安倍頼良の六男安倍重任が滴石に在住したが、康平5年(1062年)に安倍氏が衣川柵、厨川柵で破れると9月17日には戦死した。前九年の役後、清原武則鎮守府将軍として安倍氏の旧領をほぼ制圧するが、清原一族の内乱から国司源義家の参加した後三年の役寛治元年(1087年)に起こり清原氏は滅亡、藤原秀衡が清原氏の支配地を継承した。

1189年源頼朝平泉奥州藤原氏を滅亡させると、岩手西部を1189年に常陸相馬の平衡盛(戸澤氏)に与えた雫石地域もそのとき支配下となる。

南北朝争乱の時代に南部氏、河村氏、和賀氏、葛西氏とともに南朝の北畠顕信に属し、激しく足利方と対立する。南北朝時代には雫石地域は斯波氏戸澤氏が覇権を争う。その際、1341年北畠顕信が雫石に御所を置いたことが語源で「御所地区」がある。三迫の戦いで破れ、石巻の葛西氏を経て、滴石城の河村六郎を訪ねて来る。1345年戸澤氏南部政長北畠顕信とともに斯波氏を攻める。南朝側は足利方の吉良氏畠山氏の不和や足利尊氏足利直義の不和(観応の擾乱)の間隙をつき滴石城を拠点として団結し、多賀城を陥れているが、その後雫石地域の記録はない。

室町時代には地方分権的な大名が各地に形成されたが、雫石地方は戸澤氏の勢力圏として比較的安定していた。戦国時代手塚氏(一説には戸澤氏)、長山村の長山氏、戸澤館の戸澤十郎などの勢力が台頭、境界をめぐり争乱をくりかえしていた。

天文9年(1540年)、三戸南部の南部高信が沼宮内氏、渋民氏、玉山氏、田頭氏、平舘氏を率いて侵入。戸澤氏のみが服従を拒否したために滴石城が焼失し、戸澤氏は仙北郡に逃亡する。 1545年、日詰の斯波氏の斯波(雫石)詮貞が滴石郷に侵入。一時雫石を支配し、斯波御所(雫石御所)を置く。このとき初めて「雫石」の文字が使われる。

その後、天正12年(1584年)に南部信直の代に雫石地域攻略が始まり、天正14年(1586年)に斯波氏は破れ雫石城は南部よしゃれの伝説を生み落城、再び南部氏の所領になる。南部氏は小田原で豊臣秀吉に謁見、服従、所領安堵を許される。天正16年(1588年)、雫石城は豊臣秀吉の命令で破却される。

その後、徳川政権のもと南部藩の藩政下で280年間、幕末まで続く。雫石地域は秋田藩との藩境を接していたため争いが絶えず、また秋田街道の交易の利便性から橋場御番所が置かれる。雫石通は元禄8年(1695年)、宝暦5年-6年(1755年-1756年)、天明3年-天明4年(1783年-1784年)、天保年間には飢饉が起こり四大飢饉と呼ばれている。

慶応3年(1867年)、大政奉還を幕府が行うも鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争へと戦火が広がる。盛岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し、鹿角口と生保内口に向軍勢を差し向ける。雫石郷からは400名もの農兵が徴発された。野々村真澄を総大将に生保内口に攻め入り秋田藩と抗戦するも、地の利を得ず撤退した。盛岡藩は時勢虚しく、降伏恭順を官軍側に申しでるが、盛岡藩の帰服が正確を欠くとの理由から国見峠に攻め込まれる。橋場口が戦場となる。この戦いで一村焼け落ちるも、マタギの与吉(よぎ)が、長崎振遠隊斥候隊長福田栄之助を鉄砲で狙撃死させている。春木場から侵入され雫石郷は占領された。盛岡藩の降伏が受理されて戦争は終わったが現在に至るまで、官軍に占領された時の恐怖は雫石町で語り継がれている。




  1. ^ 雫石 19801-2010年”. 気象庁. 2011年10月18日閲覧。


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