菩提とは? わかりやすく解説

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菩提

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 10:24 UTC 版)

菩提(ぼだい、: बोधि; bodhi、: bodhi)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)の音写であり[1]、仏の正覚の智、さとり[2]、仏の悟りの境地[2][3]極楽往生して成仏すること[3]、悟りの智慧[1]などを意味する仏教用語[注釈 1]。bodhiの漢訳は[1][2][注釈 2]


注釈

  1. ^ bodhi の漢訳に"悟"という訳語はない[1][4]
  2. ^ 漢訳で「菩提」ではなく「覚」と意訳する新訳も出現した[5][要検証]。ただし、「覚」と訳出された他のサンスクリット語は十種類以上ある[5][要検証]
  3. ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。[12]
  4. ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている(中村元 1958, p. 136)
  5. ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのであるとされる。[19]
  6. ^ ゴータマの悟りに関して、宇宙には意識の働く宇宙と物質の宇宙の二つの世界があるとする見方に基づき、「自ら(自灯明)」という意識の大きさは、もともと宇宙の大きさと等しいものであるとする見解がある。煩悩から解脱するとき、意識の大きさは、その本来の大きさである無限大になるとされているようだ。アートマンは、人間の煩悩との関係から、「われという観念」(偽我)として存在しているかのように見える、という見解もある。[20]
  7. ^ ゴータマは無余涅槃を排斥したとされる。[21]
  8. ^ 悟りというものを宇宙原理たるブラフマンと真の自己との合一という観点から見た場合、小宇宙的概念としての内的世界(真人としての我)が、大宇宙の根本原理と合一すると言い換えることもできそうである。
  9. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[25]
  10. ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
  11. ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。(中村元 1958, p. 105)
  12. ^ そのことについて見た場合、第三の明知と、過去現在未来にわたる阿羅漢について、心に関して、心でもって知る、という智慧には、共通する部分があると言える。
  13. ^ カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められた開悟者とされたが、対機説法においては、対機した幾人かの比丘尼が還俗したりしたことが記されており、慈悲という面では、及ばないところがあったようである。 [29]
  14. ^ 「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとされている。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書 1984年 P395の注875 中村元
  15. ^ 禅宗などにおいては、根本的な悟りを得ることを大悟するという宗派もあれば、大吾を否定し、日常修行そのものが大悟であるとする宗派もある。(出典『岩波仏教辞典』1989年 P657)
  16. ^ 撒餌経(中部経典第25経)によると、無余涅槃を目的とするグループに対してのみ、無余涅槃について説くことがあった、とみることができる。
  17. ^ 悟りには、一般的に考えられている悟りと、本来的な悟りとされるものの二種類があるとする見解がある。一般的には、宇宙即我の悟りとも呼べる「大悟」というものを悟りと呼んでいる。本来的な悟りとは、日常生活において自分が気づいた欠点を修正し、その正した事柄が無理なく行えるようになることであり、これへと精進し続けることを悟りとする、という見解がある。(出典『心眼を開く』 三宝出版 1974年 P209 高橋信次)
  18. ^ 無所有処や非想非非想の思想については、他の仙人が説いた教えではなく、もともとは仏説であった、とする見解がある。(出典『原始仏典第4巻 中部経典 I』 P723 第36経の注4  春秋社2004年 中村元監修)
  19. ^ 想念には外界にあまねく存在するものと、内界の様々な想念があるとする。マーラのわなは、外界と内界の両方にあるといえる。非想非非想の思想と、悪魔のわながつながりがあると見るならば、「解脱」という語は、マーラの眼から逃れるという観点から見た「悟り」であると見ることができる。外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを止めたところに、空間(物質的な宇宙)の無限や、意識の無限(ブッダの体感する過去現在未来の意識主体の総和)を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている。
  20. ^ マハーカッサバは、比丘が衆人と交わるのを戒めた。ゴータマは、衆人済度のために遊行を何十年もしたが、マハーカッサバは、岩登りをしていたとされる。『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P284 1058の注
  21. ^ これは、「なにも持たない」ということであるとする経文もある。「なにも持たない」ということは、煩悩を滅することと関係があると思われるので、これは、もろもろの汚れを滅ぼす智に関係があると思われる。
  22. ^ これは、「生は尽きはてた」という言葉に関係があるようである。「闇黒は消滅して、光明が生じた」というブッダの言葉から推察すると、非想非非想の状態に、光明のみが感じられるということのようである。
  23. ^ 第85経や聖求経には、想受滅と思われる境地に至り、教えを説く意欲の亡くなったゴータマに、世界の主であるブラフマー神が、慈悲利他の境地に誘ったことが伝えられている。世界の主は、このままだと世界は滅びる方向に向かってしまう、と言ったとされている。考えてみると、無余の涅槃にとっては、宇宙には生成する時期もあれば、滅びる時期もある訳であるから、それはどちらでもいいわけである。世界の主の放った言葉のうちには、想受滅の解脱とは異なった次元に、諸仏の慈悲を衆生に説く境地があったことがうかがえる。
  24. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第25経は、無余涅槃を求める出家者に対して解かれた経文のようで、「闇黒は消滅して、光明が生じる」等の、梵天勧請以後の境地について、欠落している。想受滅の状態で考えられる心境は、光を受信する心の働きをも滅した闇の感覚や、光を感じる光明の感覚、この世の主などの霊的存在を感じる光明の感覚、などである。
  25. ^ 無余涅槃を求める初期の修行者にとっては、「もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地」というのは、理想の境地とされていた。これは後代においての不還とは異なっている(中村元 1986, P257の注3)。これに対して、世界が成立しつつあるときの極光浄天というのは、有余涅槃で考えられるニルバーナの世界と同質の世界であると思われる。
  26. ^ 在家信者に対しては、「さとりを達成する」「さとりを究める」と説いている。これは、一旦梵天の世界に入り、何転生かの後に、さとりを達成する、という意味である。
  27. ^ 初期の仏典には、教えを聞く人と、静かな林内で独りになって悟る人と、教えを聞きあの世に帰ってブッダをたずねてくる人と、悟ってあの世に帰って、消滅する人などについての記述がある
  28. ^ ここには、有余涅槃の萌芽があるとされている。(出典『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P292 の注 中村元)
  29. ^ 解脱していると思われる修行僧が、悪口を言ったために地獄に落ちた、という話がある。ここから見えることは、「ニルバーナ」を目指す者は、たとえ大悟を果たしたものであっても、努めはげんでいないと、悪魔の誘惑に負けた者は、悟りの境地から、外れてしまうことがあることを示唆している[50]
  30. ^ 当時の人々は、梵天を、世界を創造した主神と考えて尊崇していたとされるので、この現実世界の主宰神とする見方もある。(出典『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波書店 1978年 P95の注中村元
  31. ^ 過去七仏はすでに消滅の内に没入し、真理そのものとなったと認識されていたようだ。(出典『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店 1982年 P111 中村元)。六神通に通じた人は、自らの分身をつくりだす自己変化の能力があったとされることから類推すると、当時の悟達者は想受滅に至り、自らの存在を消し、真理そのものとなる能力があったということが考えられる。
  32. ^ このことは、唯我独尊を超えて、ダルマの人格的な面に頼って生きる生き方は、八正道における「正命」の正しい在り方を指示しているとみることができる。在家信者の生活という点に関しては、八正道と神仏への信仰生活との関連性もうかがえる。
  33. ^ 悟りの内容の最後の方に、第三の明知が生じた後、無明と闇黒が滅び、光明が生じた、とある(中村元 1958, p. 107)
  34. ^ なお、悟りの内容を記したいくつかの経文には、「神」、「人格的な面を持つ理法」、「出起する道」、「梵輪」、などの実在について、言及しているものはあまり見当たらない。これは、ゴータマにとっては、直感的な事柄について、対機説法によってこれを説く機縁にある弟子があまりいなかったためと思われる。
  35. ^ 後代の仏教(アッサムやスリランカ)で、ダルマが人格神のように見なされるに至った源泉にこの詩句があるとされている『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  36. ^ これまで人間が、神、仏、万古不滅の法、実在、宇宙意識等と呼んできたものは、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
  37. ^ 諸仏の教えがいつからのものであるかについての記述はないが、ゴータマの回想によると、7回の宇宙期の記憶があるということであるから、そのうちのいずれかの宇宙期より伝承されてきたものであるかのようにも考えられる。この宇宙期に起源をもつものであるとすると、諸仏の教えは、超古代文明を生きた仏の教えであるということができる。プラトンが記述したアトランティス大陸などにも、古代文明を生きた賢者が、万古不滅の法を悟っていたとする見解もある[66]。また、さらに、諸仏の教えが、この宇宙期以前の仏の教えであるとするならば、それは超宇宙期の仏の教えであるということができる。初期の仏教においては、万古不滅の法とは、超古代文明をさらに超えた文明に生きた仏が悟った理法であると見ることができる。また、ゴータマは、過去・現在・未来の人類の心を見通せるということであるので、諸仏の教えは未来にその発生の源を持つというふうに見ることもできる。
  38. ^ ゴータマが悟る直前にマーラの誘惑や、攻撃を受けたとされるのも、ゴータマが悟って、教えを説いてしまうと、人間をだまして支配することがやりずらくなってしまうからだとされている(出典『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)
  39. ^ 最初の時期には五下分結についての解釈は一定しておらず、死後に四悪道のいずれかにおもむかせる五つの束縛という解釈もされていた。三界説はダンマパダやスッタニパータの中にも出ていないが、五下分結、五上分結の観念はおそらく成立していたと考えられている。三界説が成立したのは、かなり遅れてのことであるとされている。(出典『ブッダ 神々との対話』岩波書店 1986年 P228 中村元)
  40. ^ 内的世界においては、悟り以前の段階として、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の心の状態を、各人の心が六道輪廻している、とする見解もある。(出典『GLA誌 2005・10』人天経綸図解義の項 GLA総合本部出版局 2005年 P16 高橋佳子
  41. ^ 生きている人間の天界は、有頂天といって、上がったり下がったりする心の情緒における上がった状態を指す、という見解がある。
  42. ^ 悟りの道から脱落した人が、地獄から抜け出るためには、生前の自らを悟り、自分は梵天の世界に生まれてはいない、ということを悟ることが外的な地獄を抜け出るきっかけとなる、ということができる。諸仏の教えと、仏との善友ということが、地獄脱出の要になっているといえる。地獄に落ちる要因となった己の悪行を省みて(もろもろの悪をなさない)、自分自身の心の在り方を止観し(自らの心を浄くする)、善いことをなそうとすることが、内的な地獄を抜け出ることにつながり、仏との善友の絆をつなぐことになる、と見ることができる
  43. ^ ブリタニカ・オンライン・ジャパン 小項目事典』によれば、菩提とは「サンスクリット語 bodhi の音写で,智,道,覚と訳される。仏陀の悟り,完全な開悟,涅槃の境地をなす智慧のことで,そこでは煩悩は断たれている。したがって俗に冥福の意味でも用いられるようになった。」

出典

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  3. ^ a b 菩提 - Weblio古語辞典(日外アソシエイツ難読語辞典)
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  5. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
  6. ^ 水野弘元 『仏教用語の基礎知識』 春秋社、2006年、p.82「(3)正徧知」。
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  8. ^ a b 菩提(ぼだい)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月22日閲覧。
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  13. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
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  15. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
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  19. ^ 中村元著『佛教語大辞典』より) 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
  20. ^ 『人間釈迦 1』高橋信次著 三宝出版 1973年 P172
  21. ^ 中村元 1984, p. 395注875.
  22. ^ 中村元 1958, p. 136.
  23. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P144 中村元
  24. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  25. ^ 『心の原点』高橋信次  三宝出版 1973年 P26
  26. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
  27. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P205注29 中村元
  28. ^ 中村元 1958, p. 95.
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  31. ^ 『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  32. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元
  33. ^ 『原始仏典II 相応部経典第2巻』 第1篇P600注88  春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  34. ^ 『尼僧の告白』1982年岩波書店P36中村元
  35. ^ 中村元 1986b, P339の注8.
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  37. ^ 『仏典を読む1 仏陀の生涯』岩波書店 2017年 P50 中村元(前田専學 監修)
  38. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第19経 二種の思い P282 前書き 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  39. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』第36経 身体の修行と心の修行ー マハ―サッチャカ経 P549 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳
  40. ^ 中村元 1958, p. 104.
  41. ^ 正見というものから離れるので、諸仏の教えというものからも、離れてゆくようである。
  42. ^ これは、宇宙期についての明知にあたるようだ。
  43. ^ 中村元 1958, p. 120.
  44. ^ これは、諸々の衆生意識についての明知にあたるようだ。
  45. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 P379 春秋社 2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
  46. ^ 中村元 1958, p. 329.
  47. ^ 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P48 中村元
  48. ^ 中村元 1986b, P306の注.
  49. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113  中村元
  50. ^ 中村元 1984, p. 144.
  51. ^ 中村元 1984, p. 420の注.
  52. ^ a b 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P197の注15 中村元
  53. ^ 原始仏典II 相応部第一巻P137第三篇第二章第8節 中村元ほか
  54. ^ 『2つの扉』 三宝出版 2022年 P143 高橋佳子
  55. ^ 中村元 1984, p. 431注1147.
  56. ^ 「世界の主」という語は、西洋的には訳しにくい語であるとされていて、「この現実世界の主」という意味を持っている。(中村元 1986b, P340の注)
  57. ^ 中村元 1958, p. 106.
  58. ^ 中村元 1986b, P339の注と、P88.
  59. ^ 中村元 1986b, P313の注.
  60. ^ 中村元 1986b, P88 と、P339 の注.
  61. ^ (出典『原始仏典第4巻 中部経典 III』第100経 清らかな行いの体験 ー サンガーラヴァ経 春秋社 2005年 前書き P426 山口務
  62. ^ (出典『人間釈迦 1』三宝出版 P157 高橋信次 )
  63. ^ (出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P335 中村元)。これは、光明という言葉に関連していると見ることができる。
  64. ^ 『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ I』岩波書店1986年P118中村元
  65. ^ 中村元 1986b, P89.
  66. ^ 『心の原点』三宝出版1973年P51 高橋信次
  67. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  68. ^ 中村元 1984, p. 340の注.
  69. ^ (出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P373 の注 中村元)無明と六道輪廻とが関係しているとするならば、内的世界においても、六道輪廻の現象が起こっているといえる。
  70. ^ a b 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P89 中村元
  71. ^ 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P18 中村元
  72. ^ 中村元 1984, p. 233 1103.
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  74. ^ 中村元 1986b, P43.
  75. ^ 中村元 1986b, P319の注8.
  76. ^ 中村元 1986b, P15.
  77. ^ 『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P249の注 中村元
  78. ^ 中村元 1986b, P94.
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  82. ^ 中村元 1984, p. 175.
  83. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 II』 第21経 怒りのこころと慈しみのこころー鋸喩経 春秋社 2004年 前書き P304 中村元監修 羽矢辰夫訳
  84. ^ 中村元 1984, p. 371の注.
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  88. ^ 『心の原点』 三宝出版 1973年 P59 高橋信次
  89. ^ 悠誘 高野山 高野山の歴史 - 一般社団法人 高野町観光協会。
  90. ^ 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、923-924頁。 
  91. ^ a b 菩提心とは - マイペディア/コトバンク
  92. ^ a b 発菩提心(ほつぼだいしん)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月23日閲覧。


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