菊地毅 菊地毅の概要

菊地毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 23:43 UTC 版)

菊地きくち つよし
プロフィール
リングネーム 菊地 毅
本名 菊地 毅
ニックネーム 火の玉小僧
身長 175cm
体重 95kg
誕生日 (1964-11-21) 1964年11月21日(59歳)
出身地 宮城県仙台市
所属 フリー
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ジャンボ鶴田
渕正信
百田光雄
デビュー 1988年2月26日
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獲得メダル
男子 レスリング
全日本学生レスリング選手権大会
1986 フリー100kg級

経歴

小中学生の頃はスイミングクラブに通い、一級下のクラスには齋藤彰俊がいた。大東文化大学へ進学後はレスリング部で活躍。1986年の全日本学生選手権フリースタイル100kg級に出場し優勝を果たした[1]。その前年まで、このクラスを連覇していたのは本田多聞であった。

全日本プロレス

1987年にジャンボ鶴田の紹介で全日本プロレスに入門。1987年12月、後楽園ホールでの『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』でのバトルロイヤル小橋健太と共にデビューし、1988年2月に滋賀県栗東町民体育館の百田光雄戦で本デビュー。同日には自身より1か月遅く入門した小橋もデビューし、その後は互いに負けじと切磋琢磨していく。1990年に三沢光晴川田利明らが結成した超世代軍に加入し、ジャンボ鶴田に対抗。鶴田にやられまくりながらも立ち上がるファイトで人気急上昇。レスラーとして目標としているダイナマイト・キッドユニオン・ジャックを臀部にあしらったロングタイツであったため、それに倣って旭日旗を臀部にあしらったタイツをまとい、火の玉小僧の異名を取る。その余りにも壮絶なやられっぷりは「やられの美学」、また「受け身の達人」でもなく「受けの達人」とまで形容された。この時期、鶴田の怪物性を最も引き出したのが菊地であった。

1992年には小橋とのタッグでダグ・ファーナスダニー・クロファットカンナム・エクスプレスを破り、第59代アジアタッグ王者となった。地元仙台市の宮城県スポーツセンターにおける戴冠だった。折からの人気に地元の大きな声援が加わり、『前座のタイトル』扱いだったアジアタッグ戦では前代未聞の熱狂を巻き起こした。

ジュニアヘビー級でのシングル戦線では長らく足踏みしたものの、1996年7月、日本武道館において通算8度目の王座挑戦で渕正信を破り、遂に悲願の世界ジュニアヘビー級王座を獲得した(第16代)。この王座は2度防衛に成功(相手は浅子覚ロブ・ヴァン・ダム)、同日には小橋も初めて三冠王者に輝いている。

しかし、同時期に台頭した小川良成を苦手としたため、ジュニアヘビー級で確固たる地盤を築くことができず、王座戦線からは次第に後退。全日本在籍時末期には悪役商会でのファイトが中心となっていた。

プロレスリング・ノア

2000年の全日本大量選手離脱騒動では三沢らと行動を共にし、全日本プロレスを退団してプロレスリング・ノアに移籍。旗揚げ第2戦のメインで小橋が敗れ、秋山準との乱闘から小橋を救出したことでお笑い系から離脱し、注目を集める。その後バーニングの一員として小橋と共闘する傍ら、2002年には金丸義信と組んで新日本プロレス獣神サンダー・ライガー&田中稔組を破って第9代IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。

その後は秋山との抗争で一時的に脚光を浴びたものの、再び前座戦線に戻っている。テレビ中継解説者でレフェリーのマイティ井上によると、菊地はヘッドバットの使用過多や、無茶をするファイトスタイルから、パンチドランカーの症状が出ているといい(本人は否定[2])、体調面の不安も抱えている。

2009年には新日本プロレスベスト・オブ・ザ・スーパージュニア XVIに出場[3]。公式戦初戦で優勝した金本浩二に勝利したが、結果は3勝3負の勝ち点6で決勝トーナメント出場は出来なかった。

フリー

2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」[4]となり退団、フリーとなった。

以後は奇天烈なキャラクター性を前面に押し出すようになり、古巣の全日や様々なインディー団体で活躍。各団体の興行で強烈なインパクトを残し、2010年日本インディー大賞のニューカマー賞を受賞した。

一時期、アルバイト先の餃子の王将所属を名乗っていた。とび職、牛タン店、ラーメン店で修業をするなど職を転々とし、人材派遣・業務請負業者に登録し、工場内作業の仕事に就いていた。

また、泉田純至、本田多聞とともにチーム「頑」(かたくな)を結成。

2013年9月16日の天龍プロジェクト興行「革命陽上」のセミファイナル6人タッグ戦に出場。

2014年には宮城県大衡村の企業・オガワ企画でトレーニングをしながら働いていた。オガワ企画サポートの元、DDTプロレスリングユニオンプロレスの仙台大会には必ず参戦し、さらには全日本プロレス仙台大会に観戦に来ていた菊地はケンドー・カシンに呼ばれヘッドバットを決めた。

4月27日、OZアカデミー伊東竜二とシングル対決。試合は親友で仙台では有名なピンクのゆ〜じを人質に使ったりと自由すぎたが、最後は伊東のドラゴンスプラッシュに敗れた。

5月4日、ユニオンプロレスで菊地毅26周年記念試合を開催。FUMAと組み石川修司&河村知哉と対戦。火の玉ボムで河村知哉に勝利。

全日本プロレス「復活!2014ジャイアント・シリーズ」にスポット参戦。10月11日岩手県サンレック北上大会では青木篤志とシングルで対戦、腕ひしぎ逆十字固めで敗れる。10月12日秋田県セリオンプラザ秋田大会では秋山準と組み、DKKENSO&長井満也と対戦するが葉隠れで敗れる。

11月、DDTと全日本の仙台大会に参戦。また、最近[いつ?]では仙台城南高校レスリング部で週2回トレーニングしているという。

12月、後楽園ホールで行われた全日本の和田京平レフェリー40周年&還暦記念大会に登場、本田多聞&井上雅央とタッグを結成し西村修&土方隆司&野村直矢組と対戦し野村を火の玉ボムで仕留めて勝利した。また、この試合後には本田、井上、金丸の3人と一緒に世界ジュニアに挑戦する渕正信のセコンドにも就いた。

2015年2月21日、宮城県富谷町(現富谷市)の焼肉小鉄の店長となる。

6月27日、プロレスリングFREEDOMS仙台大会に参戦しミニライブを行う。また、仙台のライブハウスで菊地毅&THE FIRE BALLSとしてライブも行っている。

11月28日、全日本プロレス仙台大会に参戦。元みちのくプロレス所属で6年ぶりに現役復帰した愛澤 No.1とタッグを結成。復帰するまで愛澤のトレーナーとして指導もしていた。

2016年2月26日、超戦闘プロレスFMW・後楽園ホール大会で『菊地毅デビュー28周年記念』〜高速カウント特別ルール・バトルロイヤル時間無制限を行う[5]。7月4日、フリー転向後初めて古巣であるノア仙台大会に参戦。

2019年1月12日、全日本プロレス・宮城大会に参戦しTAJIRIの保持するGAORA TVチャンピオンシップに挑戦するも惜敗[6]

2020年8月31日、2015年から勤めて店長をしていた焼肉小鉄を退職。

2021年5月3日、プロレス酒場GOLD主催興行による仙台PIT大会にてリング最後の試合を行う。対戦相手は自らの希望により金本浩二とのシングル戦、リングアナは田中ケロが務め、ムーンサルトプレスで敗北[7]

以降は首の治療に専念しつつも、引退は否定し、マットプロレスは引き続き行う意向を示している[7][8]

タイトル歴

全日本プロレス
新日本プロレス
プロレスリングZERO1
DDTプロレスリング
アパッチプロレス軍
  • アパッチ認定無差別級王座
プロレスリングA-TEAM
日本インディー大賞
  • ニューカマー賞



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