荒木村重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 23:52 UTC 版)
太平記英雄伝
歌川国芳画の「太平記英雄伝廿七 荒儀摂津守村重」や、落合芳幾画の「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」で描かれている場面は、『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」の話を基にして描かれたものである。
嘉永期になると幕府の規制が緩み、太閤記関連の版本が多く出るが、それでも江戸時代の武者絵の通例で名前をもじって記載している。
『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明であるが、これによると、織田信長に拝謁した時に、村重は「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたという。
村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話である。
伝説
広島県尾道市にある時宗 西郷寺の末寺に「水之庵」というのがあった。『陰徳太平記』や現地の伝承では一時、荒木村重が尾道に落ち延びて「水之庵」に隠遁していたという伝説がある。
子孫
- 江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫の一人とされている[25]。
- 荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた[26]。
- 現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承がある[27]。
- 熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官している。
- 荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としている[28]。
主な家臣
(*有岡城の戦いで村重が没落するまでの家臣。従属者も含む。)
- 高山友照
- 高山右近(友祥・長房・重友) … 高槻城主、友照の子
- 中川清秀 … 茨木城主、高山右近の従兄弟、一説に村重の従兄弟とも
- 池田知正(荒木久左衛門) … 元々は村重の主君の立場にあったが、実質上の下克上により村重の配下となる。
- 吹田村氏(荒木村氏) … 吹田城主。村重の実弟(異母弟)で、有岡落城に際して信長の命により殺されたという[4]。
- 野村丹後 … 村重の義弟(妹婿)[3]。有岡開城時に切腹(斬首されたとも)。
- 荒木重元 … 荒木一門。
- 荒木元清(荒木志摩守)… 重元の子(父は村重の叔父・村正とも[3])で村重の従兄弟とされる。花隈城主。玄孫に荒木政羽。
- 荒木重堅(のち木下姓)
- 荒木五郎右衛門
- 荒木越中守 … 妻はだしの妹とされる(『寛政重修諸家譜』)。
- 池田和泉守
- 大河原具雅
- 塩川国満 … 多田城主
- 能勢頼道 … 能勢城主
- 加藤重徳
- 安部仁右衛門 … 大和田城主
- 渡辺勘太郎 … 有岡開城時に切腹
- 郡兵大夫
- 郡宗保
注釈
- ^ 『寛政重修諸家譜』では嫡男・村次の母とされる。だしがこの北河原三河守の女ではないかとする説もあるが、今のところだしと村次が年齢が近いということになっているため有力とは言えない。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によれば波多野義通の3代孫・波多野義定の8代孫・波多野兵部少輔氏義が丹波国天田郡荒木村に住んだのが始まりとされる[8]。
- ^ 同時代の荒木氏には荒木清長がいるが関係は不明。
- ^ 過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗り、秀吉の命で「道薫」に改めたとの説があるが、「道糞」と記した一次史料は見られず、事実ではないと指摘される[19]。また、村重が高山右近を讒訴し、秀吉の勘気を受けて出家したとの話も、右近寄りの宣教師が残した史料にしかなく事実かどうかは疑わしいとされる[20]。
- ^ 天正6年6月2日付け古志重信宛て吉川元春書状(『牛尾家文書』)[21]
出典
- ^ (元亀元年)6月24日付池田一族等連署書状(『中之坊文書』)。
- ^ 天野 2015, pp. 111–112; 天野 2017, p. 15.
- ^ a b c 『系図纂要』より。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』より。
- ^ 天野 2017, p. 70; 中西 2019, p. 181.
- ^ a b c 天野 2017, p. 12.
- ^ 『荒木略記』、『寛永諸家系図伝』、『陰徳太平記』。
- ^ 『寛政重修諸家譜 第5輯[1]』(國民圖書、1923年)
- ^ a b 国立公文書館デジタルアーカイブ『寛永諸家系図伝 藤原氏 丙2 北家』(国立公文書館所蔵、28コマ)。
- ^ a b 『寛政重脩諸家譜 第五輯』國民圖書、1923年、387頁 。
- ^ 天野 2017, pp. 31–33; 中西 2019, p. 180.
- ^ 天野 2017, pp. 31–33.
- ^ 荒木村重の戦いと尼崎城
- ^ 小川 2020.
- ^ 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞[リンク切れ]
- ^ 『中国新聞』、2014年2月28日、12面。
- ^ 天野 2017, p. 85.
- ^ 天野 2017, p. 82.
- ^ 天野 2017, p. 83.
- ^ 天野 2017, pp. 86–87.
- ^ a b 光成 2016, p. 135.
- ^ 山田 2019, p. 284.
- ^ a b 山田 2019, p. 285.
- ^ 天野 2015, pp. 130–136.
- ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。
- ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7)
- ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」
- ^ “荒木流拳法”. 日本古武道協会 (2010年1月19日). 2010年1月19日閲覧。
荒木村重と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 荒木村重のページへのリンク