聖武天皇
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后妃・皇子女
- 皇后:光明皇后(701年 - 760年) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹
- 夫人:県犬養広刀自(? - 762年) - 県犬養唐女、県犬養三千代のはとこの孫
- 夫人:南殿(? - 748年) - 藤原武智麻呂女、藤原不比等の孫
- 夫人:橘古那可智(? - 759年) - 橘佐為女、県犬養三千代の孫
- 夫人:北殿(? - 760年) - 藤原房前女(母は牟漏女王)、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫
在位中の元号
- 神亀 724年2月4日(3月3日) - 729年8月5日(9月6日)
- 天平 729年8月5日(9月6日) - 749年4月14日(5月8日)
- 天平感宝 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「法蓮北畑古墳」。
なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
備考
仏教政策について
飯沼賢司は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説した。
聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、その政策の基調を作ったのが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏造立を決意した。しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、次第に仏教観を巡る対立が生まれ、最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で造立した奉先寺の大仏であったとする)。天皇と皇后の仏教観の対立は、行基亡き後に僧綱の中心にあった行信の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、やがて皇后の甥にあたる藤原仲麻呂が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に弓削道鏡の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。そして、優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、道鏡を皇位につけるべく宇佐八幡宮神託事件を引き起こしてしまう。その後、桓武天皇が平安遷都による仏教勢力の影響力排除や最澄・空海の庇護、一連の対立に関わった八幡神の神仏習合の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする[9]。
奈良国立博物館
奈良国立博物館新館の入り口には聖武天皇筆「雑集」から集字した題字が掲げられている[10]。
命日の西暦換算
2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、グレゴリオ暦では6月8日となるが、約140年間にわたり1日前の6月7日に祭祀を行っていたことになる。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。[11]
注釈
- ^ ただし、『続日本紀』に皇太子の元服した年月日(和銅7年6月庚辰条)と聖武天皇が和銅7年6月に立太子をした記事(即位前紀)があっても立太子の正式な年月日を記した本文記事はなく(立太子と元服が同時というのは両記事の合成に過ぎない)、和銅7年に首親王(聖武天皇)が立太子された事実は確認できず、実際には元正天皇の即位後、首親王が朝政に参画したり、東宮職員の整備が進んだりした養老4年(720年)前後に立太子されたとする説もある[2]。
- ^ 河内祥輔はその弱点を克服するために自分の母親と同じ藤原氏出身の后妃の皇子に皇位を継がせることで自己の皇位継承を正当化しようと計画したとする説を採り、基王立太子・長屋王の変・光明子の立后・阿倍内親王の立太子など通説では"藤原氏の陰謀"とされる事件についても聖武天皇自身が積極的関与・主導していた可能性を指摘している[3]。
- ^ 新田部親王は一品親王に進められ、長屋王・巨勢邑治・大伴旅人・藤原武智麻呂・藤原房前・阿倍広庭は1階昇進した。舎人親王は既に一品親王・知太政官事で既に最高の地位に達し、正三位大納言の多治比池守を昇叙させると官位相当から外れるために昇叙ではなく益封が行われた。なお、『続日本紀』には参議正四位上の阿倍広庭に関して昇叙も益封も記載されていないが、即位の5か月後には広庭が既に従三位へと昇叙していることが確認できるため、『続日本紀』の記載漏れとみられる(虎尾達哉)。
- ^ これより前の皇后は原則的に神または天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。
- ^ 天平16年2月には恭仁京から難波京への遷都の詔が出されているが、当時天皇は紫香楽宮に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、たび重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている[6]。
- ^ 天平21年4月14日(749年5月4日)に陸奥国からの黄金献上を理由に天平感宝と改元されたが、わずか3か月後の7月2日(同8月19日)に新天皇の即位を理由に再度の改元が実施されている。
- ^ 公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に行基を師として出家した(『扶桑略記』)とされ、また閏5月20日に作成された東大寺への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。河内祥輔は可能性の1つとして、践祚と即位が分離する初例を桓武天皇とする通説よりも前に遡り、聖武天皇の譲位と孝謙天皇の践祚が行われた後に出家したとするならば、矛盾は解消されると指摘する[7]。
出典
- ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年、1-21頁、hdl:11173/1496、ISSN 0386-8931、NAID 120005407781。
- ^ 本間満「首皇子の元服立太子について」初出(『昭和薬科大学紀要』35号、2001年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P71-95)初版は1986年
- ^ 虎尾達哉「律令制下天皇即位時の特別昇叙について」『律令政治と官人社会』(塙書房、2021年)P145-194.
- ^ 松浦茂樹「聖武天皇と国土経営」(『水利科学』358号、2017年)p55
- ^ 筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267.
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P96・101)初版は1986年
- ^ 【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について
- ^ 飯沼賢司「信仰の広がり」(館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P158-172
- ^ 施設案内 - 東新館・西新館『奈良奈良国立博物館公式サイト』
- ^ 聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁、日本経済新聞、2012年9月26日
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