縄文人 エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 縄文人の解説 > エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人 

縄文人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/17 13:30 UTC 版)

エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人

前述のように明治から第二次世界大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族[26]、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。このような縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていないが[27]、完全な末裔ではないものの、DNA解析によりアイヌ人は縄文人の遺伝子を特に色濃く残していることも判明している。

近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張している[28]。小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人(ニヴフ系)の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している[29]

ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある[30]




[ヘルプ]
  1. ^ 藤尾慎一郎『縄文論争』講談社、2002年、88-89ページ。 なお、もともと新石器時代という概念はヨーロッパを対象とした考古学における概念で農耕の存在を重視するものだったため、1960年代からしばらくの間は縄文文化は新石器文化に分類されていなかった。
  2. ^ 藤尾、前掲書、66ページ
  3. ^ a b 縄文人の頭骨の特徴 国立科学博物館
  4. ^ 藤尾、前掲書、110-111ページ
  5. ^ 藤尾、前掲書、94-100ページ
  6. ^ 同上
  7. ^ 崎谷満 (2005.8). “『DNAが解き明かす日本人の系譜』”. 科学 (勉誠出版). 
  8. ^ 道方しのぶ『日本人のルーツ 探索マップ』平凡社新書,2005年,61頁
  9. ^ Michael F. Hammer (2005) (PDF). Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes. The Japan Society of Human Genetics and Springer-Verlag. http://www.eva.mpg.de/genetics/pdf/Japan.pdf 2007年1月19日閲覧。. 
  10. ^ University of Pittsburgh, Jomon Genes - Using DNA, researchers probe the genetic origins of modern Japanese by John Travis
  11. ^ Kumarasamy Thangaraj, Lalji Singh, Alla G. Reddy, V.Raghavendra Rao, Subhash C. Sehgal, Peter A. Underhill, Melanie Pierson, Ian G. Frame, Erika Hagelberg(2003);Genetic Affinities of the Andaman Islanders, a Vanishing Human Population ;Current Biology Volume 13, Issue 2, 21 January 2003, Pages 86–93 doi:10.1016/S0960-9822(02)01336-2
  12. ^ Shi, Hong; Zhong, Hua; Peng, Yi; Dong, Yong-li; Qi, Xue-bin; Zhang, Feng; Liu, Lu-Fang; Tan, Si-jie; Ma, Runlin Z; Xiao, Chun-Jie; Wells, R Spencer; Jin, Li; Su, Bing (October 29, 2008). "Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations". BMC Biology (BioMed Central) 6: 45. doi:10.1186/1741-7007-6-45. PMC 2605740. PMID 18959782. Retrieved November 21, 2010
  13. ^ 神澤ほか(2016)「礼文島船泊縄文人の核ゲノム解析」第70回日本人類学大会[1]
  14. ^ 藤尾、前掲書、101ページ
  15. ^ 『白保竿根田原洞穴:旧石器人骨からDNA…国内で最古』”. 毎日新聞 (2013年12月2日). 2013年12月2日閲覧。
  16. ^ The HUGO Pan-Asian SNP Consortium (December 2009). “Mapping Human Genetic Diversity in Asia”. Science 326 (5959): 1541-1545. doi:10.1126/science.1177074. 
  17. ^ 溝口優司 (2010.04). “日本人形成論への誘い─シナリオ再構築のために”. 科学 (岩波書店). 
  18. ^ 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年) 
  19. ^ 日沼頼夫 (1998) 「ウイルスから日本人の起源を探る」『日本農村医学会誌』,46(6),908-911
  20. ^ 藤尾慎一郎『縄文論争』講談社、2002年、45-48ページ
  21. ^ 現在では、ブリテン島など新石器時代には殆ど農耕を行っていなかった地域もヨーロッパに存在したことが知られている(藤尾、前掲書、188-191ページ)。
  22. ^ およそ2万年前の後期旧石器時代の遺跡から神津島産の黒曜石が発見された例も多い。代表的なものとして東京都練馬区の比丘尼橋遺跡、同調布市の野川遺跡、相模原市の橋本遺跡などがある。ただしこの時期の海岸線は現在のものとは大きく違っており、伊豆諸島の利島から神津島までは一つの大きな島であった(橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年、6-7ページ)。
  23. ^ 橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年および橋口尚武『黒潮の考古学』同成社、2001年等
  24. ^ 荒俣宏・篠遠喜彦『楽園考古学』
  25. ^ ただしこうした説を唱える者は歴史学や人類学、考古学の専門家の中には存在しない。詳細はエクアドルの歴史を参照。
  26. ^ 古代の日本においては蝦夷(エミシ)、11世紀から12世紀にかけての日本では胡(エビス)、13世紀以降の日本人は蝦夷(エゾ)と呼んだ(佐々木馨『アイヌと「日本」』山川出版社、2001年、12-13ページ)。
  27. ^ 熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』山川出版社、2004年、16-17ページ
  28. ^ 平山祐人『アイヌ史のすすめ』北海道出版企画センター、2002年
  29. ^ 小野有五『自然のメッセージを聴く』北海道新聞社、2007年
  30. ^ 熊谷、前掲書、5-6ページ
  31. ^ 門田誠一「朝鮮三国時代における硬玉製勾玉の消長」『古代東アジア地域相の考古学的研究』2006,学生社
  32. ^ 橋口、前掲書、52ページ
  33. ^ 橋口、前掲書、53ページ
  34. ^ 橋口、前掲書、10-21ページ
  35. ^ 橋口、前掲書、52-53ページ
  36. ^ 別の可能性として、黒潮本流のルートが一時的に変化し、八丈島の南に移っていたのではないかとも考えられている(橋口、前掲書、59ページ)
  37. ^ これより以前に湯浜人と呼ばれる人々が八丈島と神津島の間を行き来していたが、湯浜人の出自はまだはっきりしておらず、本州島から伊豆諸島に渡った集団であるかどうかもよく分かっていない。
  38. ^ 本節では島と島の間の航行が特に問題となる為、現在の九州地方で最大の島を特に九州島と表記し、九州島周辺の離島と分けて取り扱う。
  39. ^ 橋口、前掲書、55-57ページ
  40. ^ 橋口、前掲書、152-153ページ
  41. ^ 長浜浩明『韓国人は何処から来たか』
  42. ^ 堤隆は旧石器時代の神津島での黒曜石採取については、丸木舟を建造出来るような石器が存在しなかったことから考えて、カヤックのようなスキンボートを使用したのではないかと指摘している(堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、93ページ)
  43. ^ ほとんど舷側が無い、サーフィンのロングボードに近いもの。例えばさいたま市の膝子遺跡出土の縄文後期と推測される丸木舟群の中には、残存長4.2メートル、残存幅45センチで舷側が殆ど無いものが含まれている(橋口、前掲書、161-162ページ)。
  44. ^ 本節の典拠は橋口、前掲書、158-172ページ
  45. ^ 堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、96-97ページ
  46. ^ 柴田治呂 (1991) 『カムイから神へ』 筑摩書房
  47. ^ 縄文語の発見


「縄文人」の続きの解説一覧




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「縄文人」の関連用語

縄文人のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

クロスステッチ用布地

底打ち当金

佐伯由香里

播磨大名竹

なると巻

越前加賀海岸国定公園

滝

コーヒー博物館





縄文人のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの縄文人 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2017 Weblio RSS