米内光政 評価

米内光政

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評価

山本五十六は海軍次官として米内の部下だったころに「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の井上成美の大将昇進、軍令部次長に大西瀧治郎を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。

井上大将は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛加藤友三郎・米内の三人だけであった[注 12]。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。大西新蔵は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。保科善四郎は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。高木惣吉は、「世にいう秀才タイプでなかったことは事実」[154]「雄弁も、迫力も、政治的烱眼もたしかに持ち合せていなかった」[155]「だがその代り、いつも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後までくりかえした」[156]と評する。

前田稔は、「米内さんは老荘の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている[157]

中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている。

戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。

敗戦間もない1945年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議にて、反軍演説などで知られる斎藤隆夫による軍国主義に対する軍の責任を問う質問への答弁において、最後の陸軍大臣下村定大将は、陸軍を代表して自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認め、その原因の分析と共にこれを総括し、国民に対して謝罪を行っている。しかし、下村と同じく最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は、(斎藤の質問には)海軍大臣を対象とした答弁が求められておらず、議事録にもないことを理由に答弁に立つ事を拒否、米内は下村陸相とは対照的に、場内の議員達の憤激を買うという一幕があった[158]

下村率いる陸軍が組織としての敗戦責任の非を公的な場で認めた一方で、米内率いる海軍はその後の組織解体に至るまで、敗戦責任について組織として公的な分析と総括、自省を行う事はついになかった。その後、多くの文化人により米内を始めとする海軍左派を「良識派」として大書した傾向も相まって、いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史の上で定着する遠因ともなったと、自らの著作すらもそうした傾向のあった半藤一利をして言わしめる事となった[159]。陸軍悪玉論・海軍善玉論自体は半藤を始めとする海軍派の作家や、戦史研究者の中ですらも既に一方的に偏った不正確な主張であるとみなされているが、海上自衛隊が公的に「海軍の後裔」たる事を公言する事が日本社会が受容している一方で、陸上自衛隊は同様の主張は控えめに行う傾向にあるなど、2020年代現在に至るまで日本国民の印象の中に極めて強い影響を残し続けている[要出典]

アメリカのタイム誌は、海軍大臣のとき[160] と総理のとき[161] の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱っている。


注釈

  1. ^ ただし、『新岩手人』によれば、海軍省に着任しての第一声の中で「たゞ僕個人としては武人として最大の名誉たる聯合艦隊の司令長官から一個の軍属に過ぎない海軍大臣などになるのはいやだ」と言う一方で「然しそれでは卑怯だと言はれては武人の屈辱だから御引受けしたのだ」とも述べている[57]
  2. ^ 倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかったことと、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任した。
  3. ^ 畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を拒否することができなかった。「閑院宮の顔を立てたい」と考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、米内は辞表を受理した。
  4. ^ 井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。[要出典]東條内閣末期から米内邸に日参していた中山定義によると、大臣就任前から「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、中山は「米内が大臣に復帰したら、次官は必ず井上だ」という感触を得ていた[96]
  5. ^ この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している[104]。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。
  6. ^ のちに米内と共に内閣で終戦を主張する外務大臣東郷茂徳は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で5月11日の戦争最高指導会議構成員会合においで米内がソ連を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられている。
  7. ^ 元々、米内と阿南は気質的な部分でなかなか反りが合わず、竹下正彦陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった。阿南は鈴木貫太郎首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も小島秀雄海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている阿川弘之 1982。また、終戦の玉音放送の原稿についても、「戦勢日ニ非ニシテ」を「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあったという。会議中に中座する際、米内は迫水久常に絶対に修正を認めないよう指示した。しかし会議に戻ってきた米内は鈴木の仲介で修正を受け入れ、「戦局必スシモ好転セス」と改められた[112]
  8. ^ 知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物を全てまとめており「(収監される)準備はできているよ」と笑顔で答えたという[114]
  9. ^ 血圧は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で[115]、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。
  10. ^ 昭和16年(1941年)10月に近衛文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。
  11. ^ 山田風太郎は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している[122]。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が参謀総長閑院宮載仁親王を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼすことを恐れて実状を口にすることを避けたともいわれている[123]。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル(nice admiral)」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた緒方竹虎は聞いている[124]。畑はその米内の態度について、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)[東京裁判にて] 毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。
  12. ^ 山本五十六を条件付きの一等大将と格付けしている
  13. ^ 佐々木は米内と同じ岩手県出身でアニメでも東北訛りで演じている。

出典

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